日月神示の系譜 (R5.12.27)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。本日のお題は前回に続き「日月神示の系譜」を探究して行きます。前回は、出口なおと上田喜三郎 (後の出口王仁三郎) とが出逢う所の経緯の前半を探究しました。今回は、その後半となります。それでは、ナオと喜三郎の出会い、後半を探究して行きましょう。
さて、高熊山から下山した喜三郎は、それまで営んでいた穴太の精乳館を廃業し、園部に移り住むと、鎮魂と幽斎修行 (霊憑かりを主体とした神業) を教え始める。同年の四月に、駿河の月見里 (やまなし) 神社に附属する稲荷講社総本部から、三ツ屋喜右右衛門 (みつやきえもん) という使いが来て、喜三郎は稲荷講社総本部に招かれ、稲荷講社総長を努めていた永沢雄楯 (ながさわかつたて) と初対面する。永沢は、霊学中興の祖と伝わる本田親徳 (ほんだちかあつ) の弟子であった。本田は、喜三郎を見込んで、白川神道系の本格的な鎮魂帰神法 (意図的に神憑かり現象を起こす修法) を三日間にわたり教授する。これは後に、大本の発展に大きく寄与する事になる。又、この時に、永沢の審神 (さにわ) (憑かった神がいかなる神かを審定する法) で、高熊山で喜三郎に憑かった神霊は、小松林命 (こまつばやしのみこと) で、素盞嗚尊 (すさのおのみこと) の分霊だと判明した。駿河で多くを得た喜三郎は、園部に戻り、稲荷講社所属の霊学会をつくり、さらに幽斎修行に励んでいた。そんな時、喜三郎に小松林命から、次のような神命を受ける「上田喜三郎、乾 (いぬい) (北西) を指して行け、お前を待つ人がいる」と。そして喜三郎は、行手に何が待っているのか解らないまま、旅支度をして、穴太を出発するのです。
寅天堰 (とらてんいね) の茶屋に立ち寄った喜三郎の姿は、陣羽織を着て、歯には「おはぐろ」を付け、荷物はバスケットとコウモリ傘という異様な姿だったと云う。茶屋で金神様を見分ける人を待ち続けていた久は、喜三郎の姿を見て、「この人」と直感したと云う。久は、ナオの筆先を何も説明せずに喜三郎に見せた。
喜三郎:「しかし、綾部という土地はどちらの方角であります」
久:「ちょうどこの辺からですと、西北に当たります」
喜三郎:「ああそうですか。私は大阪におりましたら、神様がお指図に、 ”お前は乾の筋に大変な神のご用があるから早く行け” と仰せられましたから、そのことでありますに違いないから行きましょう」
この会話で判るように、喜三郎はナオに会いに行く事となります。喜三郎は久に教えてもらった綾部の地を踏んだのは、十月八日の事である。その十月八日に初めてナオと喜三郎は面会するのだが、この時は挨拶だけで終わってしまう。
ナオは、喜三郎の所属している稲荷講社の名を聞いて、当時綾部地方で流行していた低俗な霊憑かかりの「稲荷下げ」と勘違いした事や、喜三郎の年齢が若過ぎた事や、金光教の布教師の足立正信が猛反発した事が原因だと云われている。喜三郎が帰った数日後に、ナオの筆に次のような筆が出る。「おナオのそばには正真 (しょうまつ) のお方がおいであそばすから、来た人をそまつなあしらいを致すでないぞよ」「あのおん方は、この方が引き寄したのざぞよ。神の守護のしてあること」「神の仕組がしてあることであるから、上田と申すものが出て来たならば、そこを塩梅 (あんばい) ようとりもちて、腹を合わして致さぬと、金光殿にもたれておりたら、ものごとが遅くなりて間に合わぬぞよ」と。
そして、ナオの命を受けた信者の四方平蔵が、翌明治丗二年七月に喜三郎を迎えに穴太を訪れて、出口なおと上田喜三郎は再会する運びとなる。
その後、喜三郎は綾部に移り住み、精力的に活動を始めるのであるが、その探究は別の投稿で書く事にします。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。
追記
今回のお題を、個人的により深く探求したいとお考えの皆さまは、今回の投稿にあたり、非常に参考になった書籍、中谷伸一著「復刻版 出口王仁三郎 三千世界大改造の真相」をお読み下さい。
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