第八巻 磐戸の巻 第十一帖 (R5.9.5)

 皆さま御機嫌いかがでしましょうか、投稿者:加藤です。今回の御題は、日月神示の第八巻 磐戸の巻 第十一帖です。さほど難解な帖では無いですので、読んで下さい。

第八巻 磐戸の巻

第十一帖 (二四七)

 心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか、判らんと申してあまりであるぞ。ゴモク吐き出せよ、其儘にしておくと段々大きくなりて始末にゆかんことになりて、しまいには灰にするより、手なくなるぞ、石流れて、木の葉沈むと申してあろうが、今がその世ざぞ。改心してキレイに掃除出来たら、千里先きにゐても、ひつきの神とたのめば何んなことでもさしてやるぞ、この神は世界中何処へでも届く鼻もってゐるのざぞ、この世つくりたこの神ざ、この世にわからんこと一つもないのざぞ、神の御用さへつとめて下されたら、心配ごとが嬉し嬉しのこととなる仕組ざぞ、日本臣民ばかりでないぞ、何処の国の民でも同様に助けてやるぞ、神にはエコがないのぞ。一月十三日、⦿の一二か三。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 二〇五頁 より)

 さほど難解な帖では無かったと思います。投稿者:加藤が思うに、少々言葉足らずかなと思う所と、日月神示独特の言葉使いが在りますので、補足させてもらいます。「メグリ」と「ゴモク」これは、近々に別カテゴリーで解説を始める予定の「カルマ」と同じ意味だと考えます。「ゴモク吐き出せよ、其儘にしておくと段々大きくなりて始末にゆかんことになりて、しまいには灰にするより、手なくなるぞ」ですが、突然「灰にするより、手なくなるぞ」と書かれています。何を灰にすると云っているのかですが、身だけで無く、魂も灰にすると云う意味だと考えられます。魂を灰にするとは、輪廻転生が不可能になると云う事です。やり直しの機会をも与えられ無いと云う事ですね。

 今回の投稿では、少々ですが、投稿者:加藤の個人的な話をさせてもらいます。インターネット上には、日月神示を題材にしたページが多く在ります。その中で良く書かれている事に、日月の生き方に入ると、当初は大変な人生になると多くの人が言っています。御多分に洩れず、投稿者:加藤も、日月神示に出会い、日月の生き方を選んでから、いまだに大変な人生を歩んでいます。「ゴモク吐き出せよ」とこの帖に書かれていますが、日月の生き方を選んだ、その時から「カルマの大清算」が開始されるのです。日月の生き方を知らずに「カルマの大清算」などが降り掛かって来たら、人は自ら命を断つ人が多いでしょう、命を断たずとも、遠い海外へ逃げ出し、麻薬に溺れ死ぬ様な人生を選ぶかも知れません。しかし、そんな苦しい「カルマの大清算」の中でも、光は見えているのです。「神の御用さへつとめて下されたら、心配ごとが嬉し嬉しのこととなる仕組ざぞ」と今回の帖に書かれている様に、絶体絶命状態が、何処でどうなったのか判ら無い内に、大ドンデン返しが起こり、纏まった現金が転がり込んで来たり、まわりに四十度近い高熱の、武漢肺炎に感染した人ばかりの人達と共同生活をしなければなら無い状況下 (令和五年五月八日以降に、五類感染症に移行した為にそこいら中にゴロゴロ感染者が歩いている状況が続いている) になり、自分にも風邪の症状が出て来てしまい、あぁ、オイラも年貢の納め時家かと思っていたのですが、市販の風邪薬を服用しただけで、投稿者:加藤だけは、高熱を出す事も無く治ってしまうという経験もしました。日月神示で言う「大難が小難となる」ですね。この様な経験をすると、「カルマの大清算」も苦では無くなって来ます。逆に嬉さをも感じる人生になって来るのです。日月神示には「大掃除」という言葉が良く出てきます。読んだマンマの意味での掃除(家や庭、町内等々)も大事な掃除ですが、身と魂の掃除も大事だと云う事だと思います。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。