第四巻 天つ巻 第十三帖 (R6.9.8)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第四巻 天つ巻 第十三帖です、順番では第十二帖と成るのですが、第十二帖は (R5.5.9) にて投稿済なので、第十三帖へ飛びます。お読み下さい。
第四巻 天つ巻
第十三帖 (一二〇)
空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、いよいよとなりて来てゐるのざぞ。神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、もうおことはり申す術 (すべ) なくなりたぞ。玉串神に供へるのは衣 (ころも) 供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。人に仕 (つか) へるときも同じことぞ、人を神として仕へねばならんぞ、神として仕へると神となるのざから、もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に供へると同様にして呉れよ、喰べ物今の半分で足りると申してあるが、神に献げたものが祓ひ清めて神に献げると同様にすれば半分で足りるのぞ、てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ。九月六日、一二のか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 98頁ー99頁 より)
ひふみ神示〔新版〕 (Ten books) [ 岡本天明 ] 価格:8800円 |
本帖の冒頭文「空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ」ですが、具体的な事柄が書かれていないので、色々な解釈が出来る (含まれる?) 文章だと投稿者:加藤は思います。先ず本帖が降ろされた日付から読みとろうとすれば、広島への原爆投下の預言 (ひつこいが予言ではありません) と読むことが出来ると思います。または、大峠へ向かう前兆現象で、未だ起こっていない現象なのかも知れません。
「神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、もうおことはり申す術 (すべ) なくなりたぞ」との部分、当ブログをご愛顧してくださる皆さまには、説明の必要がない文章だと思います。臣民の身魂磨きが一向に進まないことへの注意を促す文章です。
「玉串神に供へるのは衣 (ころも) 供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか」本帖で難しいのは、ここの文章だと思います。投稿者:加藤は、この文章に説明が必要となる、現在の日本国に少々ですが悲しみに近い怒りを感じるのですが、マァそれは私的な感情なので、横に置いて説明を続けます。現在では基本的に日本の神社は、神社本庁 (GHQ により設置された、組織) を最上段に置き、各地に神社庁が設置されています。そこの考えでは、玉串とは、玉串に自分の心をのせて神に捧げること (物) とされています。しかし、現在の日本人が忘れ去ってしまった、本来の日本神道からすれば、何を戯けたことをと投稿者:加藤は言いたいです。投稿者:加藤には、「玉串に自分の心をのせて神に捧げること」この言葉にキリスト教的な腐敗臭がプンプン臭って来てしょうがありません。誤解をされたく無いので、一言付け加えると投稿者:加藤がキリスト教を否定している訳ではありません。但しキリスト教はキリスト教で、他の信仰に対して、他の考え方を押し付けることは、他人の家に土足で上がり込むと同じだと言いたいだけですが…彼らは家に入るのに、履き物を脱ぐ習慣の無い人々でしたね (苦しいイヤミです) 。さて気をとりなおして、日月神示の解釈です。皆さまは神葬祭 (しんそうさい) に出席された方は居るでしょうか?居たとしても少ないのではないかと思います。現在の日本では、葬儀といえば、「寺」ですからネェ〜〜。マァ、この辺の話をしだすと、とんでもなく長い投稿になるので、出来るだけ簡単に説明を進めます。玉串を供える (神葬祭などで) =神の衣を供える=人間の肉体を供える=自分を捧げる、簡単に書いても、何ですか?と思うことでしょう。答えは「神人一体」に落ち着くなのですが、もう少し説明します。ドラマ、アニメ、小説等々で、「生贄の儀式」なとが在ったことは御存知だと思います。当然ですが、神は生贄 (いのち) などは求めていません。過去に生贄の儀式が、本当に存在したならば、それは人間が勝手に解釈し、勝手に行っただけの話でしょう。または、悪神の悪戯なのかとも思います。神は自分を捧げろと言っているので、他人を捧げろなどとは一言も言ってません。では自分の命を捧げるのでしょうか?これも違います。現代を生きる人間に、神は何を求めていると、皆さまは思いますか?困った時の神頼み、この言葉は日本では昔からあるそうです。では本当に神は困った状態から脱出させてくれるでしょうか?それも無いでしょう、神は本人に対しての、気づき以外は手を出さないと思います。困った状況を自分が発生させたなら、その問題を自分で乗り越えるしかないからです。理由は魂の成長のため。神が求めるのは人々の魂の成長だけなのだと投稿者:加藤は思います。現在の決まりごとの中では、財が無ければ生活も出来ません。この状態の中で、何を神に捧げるものがあるでしょうか?大前提として、神は金銭 (賽銭) などを必要としません、賽銭とは奉納品ですので、現金である必要など、一切無いです。現金が欲しいのは、神社本庁の人間だけです。それを踏まえて考えても、答えは一ッではないと思います。例を上げるならば、貴方は今日から十日間、辺境の神社へ参拝に行けますか?どうしても辺境なので、往復に十日間が必要です。国や社会が勝手に決めた、連休日ではない、通常の生活を捨てて、十日間。これが投稿者:加藤の考える、自分を捧げるという行為の一例です。もし出かける覚悟 (全てを捨てる) が出来て、辺境の地まで行ったとしましょう。貴方は辺境の宿で、一人タップリと時間をかけて、温泉に入り、化学肥料が一切ない、自然からの恵を食し、今までの自分の人生を振り返る時間が持てることだと思います。そこでは沢山の気づきが得られると投稿者:加藤は思います。神からの救いとは、天からヒラヒラと降って来るものではなく、自分の中から光り輝き出すものだと投稿者:加藤は理解しています。先ず考えてもらいたいのは、世のため人のために仕事をしていると自負していても、自分を救うことが出来なければ、他を救うことなど出来ないと投稿者:加藤は思います。今回の投稿は、宗教がかった話になり、大変申し訳なく感じています。しかし、皆さまには、今回の日月神示の内容を、宗教以前の話として受け止めていただきたいと投稿者:加藤は願います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。