第三巻 富士 (普字) の巻 第二十七帖 (R6.8.20)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第三巻 富士 (普字) の巻 第二十七帖になります。お読み下さい。
第三巻 富士(普字)の巻
第二十七帖 (一〇七)
神の堪忍袋切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、これからはその場で引繰り返る様になるぞ。誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何してゐるのぞ、神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、今の様な都会みなエドであるぞ、江戸は何うしても火の海ぞ。それより外やり方ないと神々様申して居られるぞよ。秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ、神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ。八と十八と五月と九月と十月に気つけて呉れよ、これでこの方の神示の終りぞ。この神示は富士 (二二) の巻として一つに纏めておいて下されよ、今に宝となるのざぞ。八月の三十日、⦿のひつ九⦿。 (富士の巻了)
(太陽出版 新版 ひふみ神示 87頁ー88頁 より)
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本帖の冒頭は「神の堪忍袋切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが」ではじまる非常に厳しい言葉だと、投稿者:加藤には感じます。この文章をチョット深掘りすると、臣民と書いてある部分の臣民とは、悪神側についた臣民を指していると投稿者:加藤には思われます。何故ならば、臣民の思うようにやっても、九分九厘でグレンだと書かれているからです。意味は、悪神がどんなに頑張っても、九分九厘までしか行けず、最後の一厘が行えないという、決定的な欠落があるので、神の前では結局グレンと引繰り返ることになるという意味です。日月神示の神様は、非常に優しい神様です。ですので臣民に対して厳しい言葉を使っている時は、注意深く読む必要があります。今回の文章も、悪神側に引き付けられていないか?と臣民に立ち止まり考えることを促している文章だと投稿者:加藤は思います。
「どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ」???一寸理解出来ない文章ですね。悪人を神が助けるは、マァ理解出来ます、しかし善人を助ける?必要ある??と思いませんか???我々人間からの視点では理解出来ない文章なのですが、神様の視点ではどうでしょう、神様からみれば、善も悪も神の御用です。我々人間の目的は、魂の成長ですので、善も悪も経験の必要があるのだと投稿者:加藤は理解しています。我々人間は神様から、身=肉体を借りています、理由は魂だけでは、痛み (心を含む) を経験出来ないからです。悪の御用がどれだけ痛みを伴う御用なのかを知らなければ、善の御用を務めることは出来ないと投稿者:加藤は考えます。身魂が磨かれ、改心が出来れば、身魂共に卒業となるでしょうが…我々人間は、どれだけ光側にいたとしても、人間が人間である悪側を裁くことは許されません。それは悪も神の御用だからです。裁ける (カルマにより、善行を行わせる) ものが存在するならば、神だけだと投稿者:加藤は思います。人間の決めた法で裁いても、魂の成長には、さほどの意味は無いのです。
本帖は、日月神示 第三巻 富士 (普字) の巻の最終帖になります。次回の投稿からは、第四巻 天つ巻に突入しますので、引き続き宜敷く御願い致します。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。