第三巻 富士 (普字) の巻 第二十一帖 (R6.8.11)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第三巻 富士 (普字) の巻 第二十一帖になります。お読み下さい。

第三巻 富士(普字)の巻

第二十一帖 (一〇一)

 神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやるのぞ。配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、何もかも神に供へてからと申してあろがな、山にも川にも野 (ぬ) にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。神は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、臣民神にすがれば、神にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、何も六ヶ敷いことでないぞ、神は無理言はんぞ、この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、よく考へて見よ、今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ、臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ、世界中一度に唸 (うな) る時が近づいて来たぞよ。八月の二十八日、⦿のひつ九のかみふで。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 82頁ー83頁 より)

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感想(12件)

 本帖は「日月神示らしく抽象的な言葉が並ぶ帖だなぁ〜」と投稿者:加藤は感じます。しかしジックリと読めば「何もかも神に供へてからと申してあろがな、山にも川にも野 (ぬ) にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな」の部分が鍵だと見えてくると思います。ここが鍵だと理解するには、日月神示でクドク伝えられている身魂磨きと神祀りは道義だと理解しなければならないと投稿者:加藤は思います。どういう意味かというと、身魂が磨かれると「神人一体」であるということが解って来ます。「身魂を磨き、魂の成長のために、我々は神に生かされている」と感じることが出来るようになれば、自然に神に感謝し、神祀りが常になるのだと投稿者:加藤は思います。

 上に記した投稿者:加藤の解釈と、昭和十九年八月二十八日に、この神示が降ろされた時代背景を考えれば、抽象的な言葉が並ぶ、今回の帖も、さほど難解な帖ではないのではないかと投稿者:加藤は思います。本帖の解釈で、おまけ的な説明を付け加えると「印刷出来んと申せば何もしないで居るが」の部分、日月神示 第二巻 下つ巻 第五帖に「この神示印刷してはならんぞ」と書かれている文章を、繰り返している文章です。この文章は、このままの意味で読み取るのではなく、縁のない人間を無理に引っ張るなと読み解く方がよいと投稿者:加藤は考えます。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。