第三巻 富士 (普字) の巻 第十四帖 (R6.7.30)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第三巻 富士 (普字) の巻 第十四帖になります。読んで下さい。

第三巻 富士(普字)の巻

第十四帖 (九四)

 臣民にわかる様にいふなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、それでその身体 (からだ) をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、夜になれば眠ったときは神にお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。八月二十三日、⦿の一二のか三。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 77頁ー78頁 より)

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 今回の帖は、前 第十三帖の続きというか、補足というか、補強のような帖になります。「身も心も神のものざから」と書かれていて、皆さまが引っ掛かる所は「心」だと思います。マァ百歩譲って「身」は神のものと理解したとしても、「心」まではネェ〜と思う方が多いでしょう。「心」という言葉の解釈は少々難しく、この「心」を統制 (コントロール) する事はなかなか出来ません。過去の投稿でも「心」は厄介なものと書いた記憶がありますが、身魂磨きにおいて、「心」は魂側なのですが、魂の我が出ると「心」に影響が出るのだと投稿者:加藤は考えています。「魂=心」に我が出るということは、我れ善しの方向に動いていることになります。本帖で「夜になれば眠ったときは神にお返ししてゐるのざと思へ」と書かれています。眠っている時には完全に自分の「心」の統制は不可能です。もっと言えば「暴走しまくり」です。

 ここで大事なことは、身も心 (魂) も神からの預かりものなのだと理解しなければならないと云うことです。「神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ」と締め括られています。身魂磨きとは、自分という神を磨くということなのだと理解しなければならないと投稿者:加藤は思います。

 今回の投稿は、何を言っているのか、掴み所の無い文章になっていると、自分でも思います。過去の投稿で「心」に付いて、書いた時も同じだったと記憶しています。「心」を説明するのは、なかなか言葉では難しく、投稿者:加藤の力不足を痛感します。申し訳ありません。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。