第三巻 富士 (普字) の巻 第九帖 (R6.7.23)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第三巻 富士 (普字) の巻 第九帖になります。読んで下さい。

第三巻 富士 (普字) の巻

第九帖 (八九)

 神界は七つに分かれてゐるぞ、天つ国三つ、地 (つち) の国三つ、その間に一つ、天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、中 (ちう) 界の七つぞ、その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ。今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神かかりてゐる臣民ぞ、神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮ってゐる臣民ぞ、それが人間の誠の姿ぞ。いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、地獄の三段目に入る事の表 (おもて) は一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一。八月の十八日、⦿の一二⦿。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 73頁−74頁 より)

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感想(12件)

 本帖の書き方は、日月神示らしいと言えば、日月神示らしい書き方の帖だと投稿者:加藤は感じます。大きく分けて、関連性の無い二ッのことが書かれています。一ッ目が「神界」の構造について、二ッ目が「地獄の二段目、三段目」についてです。一ッ目の「七」に付いては日月神示でお馴染みの「七」です。当ブログの読者ならば、「あぁ〜、また七か」と思ったことでしょう。ただし神示で「七」が頻発するには意味があると考えなければなりません。「ミロクの世」は「七」を基本に区分されている。すなわち「七を単位に重層的な構造」になっていると考えるべきだと投稿者:加藤は思います。

 二ッ目の「今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ」ですが、本帖が降ろされたのが、昭和十九年八月十八日で、大東亜戦争の真っ只中です、その時点が「地獄の二段目」です。「地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから」と続き、「地獄の三段目」では人が住める所ではなくなると示しています。しかし、「地獄の三段目に入る事の表 (おもて) は一番の天国に通ずることぞ」とも示されているので、「地獄の三段目」という大峠を越さなければ、ミロクの世=天国には通じないということなのでしょう。「神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一」と書かれているので、「地獄の三段目」に移行した時に、身魂が磨かれていなければならないということです。身魂は、自分でしか磨けません。神が磨いてくれるものではありません。病気を自分で治すことと同じで、誰かが治してくれるものではないのです。医者は薬をくれるでしょうが、それは症状を緩和するだけです。「身魂磨き、改心、掃除、洗濯」を何度も何度も日月神示で示している理由は、一人でも多くの人間を、ミロクの世へ移行させたいと思っている「神心」なのだと投稿者:加藤は思います。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。