第三巻 富士 (普字) の巻 第八帖 (R6.7.22)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第三巻 富士 (普字) の巻 第八帖になります。読んで下さい。
第三巻 富士(普字)の巻
第八帖 (八八)
山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、神々まつり合はすことぞ、皆何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ。みなまつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ、これが神国の姿ぞ、物足らぬ物足らぬと臣民泣いてゐるが、足らぬのでないぞ、足らぬと思ふてゐルガ、余ってゐるのではないか、上 (かみ) の役人どの、まづ神祀れ、神祀りて神心となりて神の政治せよ、戦などは何でもなく鳧 (けり) がつくぞ。八月十七日、⦿の一二のか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 73頁 より)
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本帖では、神の概念が伝えられている神示だと投稿者:加藤は思います。「山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ」と書き始められています。日本人にとっては、八百万の神と云う考え方があるので、特に説明の必要は無く、シックリと受け入れられる文章だと思います。
「神祀れと申すのは神にまつらふことと申してあろが、神々まつり合はすことぞ、皆何もかも祭りあった姿が神の姿、神の心ぞ」の解釈ですが、現在話し言葉で「まつろう」という言葉は使用することが無いと思いますが、意味としては「従う」です。ここで一寸だけ注釈を入れるとするならば、この「従う」は、絶対服従という意味では無いということです。何故ならば、従う前に、神の本質は「愛 (慈愛的) 」と「歓喜」の光だからです。なので、自ら従う気持ちが芽生えなければ、従う意味が無いのです。例を上げると、貴方が絶対の信頼を持って接する人の意見には従うでしょう。それに対して、性格の悪い上司から、イジメの様な指示が出されても、気持ちよく、自ら従えません。それと同じです。八百万の神々に絶対の信頼を持っていれば「従える」のです。
「みなまつれば何も足らんことないぞ、余ることないぞ」この文章の解釈ですが…これ、読む人によって、受け取り方がかなり違って来るのではないかと投稿者:加藤は思う文章です。ですが此処では、投稿者:加藤の解釈を書き記します、しかし、それこそが正解だとは思わないで下さい…「体主霊従」な物質世界に生きていると、物欲という物がついて回ります。ですが、老人のほとんが「私は、欲しい物など、もう何も無い」という人が多いです。これは体が老いて、車の運転など出来ないから「高級な車など要らない」と言っている訳では無いでしょう。「もう何も無い」ですから、過去には欲しい物が沢山あったのでしょうが、歳を重ねて「欲」自体が無くなって来ているのでしょう。八百万の神の概念からすれば、高級な車も神のものです。山も、川も、海も…全部が神の物です。それを、自分には他人より多く回せとは「あなたには、お薬だして置きますね」と言われますよ。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。