第二巻 下 (四百) つ巻 第二十六帖 (R6.6.16)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第二巻 下 (四百) つ巻 第二十六帖になります。読んで下さい。
第二巻 下 (四百) つ巻
第二十六帖 (六八)
神の国を真中にして世界分けると申してあるが、神祀るのと同じやり方ぞ。天 (あめ) のひつくの家とは天のひつくの臣民の家ぞ。天のひつくと申すのは天の益人のことぞ、江戸の富士と申すのは、ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ、仮りでよいのぞ。こんなに事訳 (ことわけ) てはこの後は申さんぞ。小さい事はサニワで家来の神神様から知らすのであるから、その事忘れるなよ。仏 (ぶつ) も耶蘇 (やそ) も、世界中まるめるのぞ。喧嘩して大き声する所にはこの方鎮まらんぞ、この事忘れるなよ。七月の三十一日、一二⦿。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 55頁 より)
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今回の帖は、全体が基本的に、岡本天明達に向けた神示であると投稿者:加藤は理解しているので、深く掘り下げる執拗はないと思います。書かれている文章や単語も、当ブログをご愛顧して下さる皆さまには、難しいとは思いませんので、本帖の全体的な解釈はしません。しかし、二ヶ所の気になる部分だけ、解釈を入れて置きたいと思います。
天のひつくの家とは、ひつくの臣民 (身魂の因縁のある臣民) の家、という所を、先ずは理解して置いて、「喧嘩して大き声する所にはこの方鎮まらんぞ」を読むと、喧嘩して大きな声がする場所には、神が鎮座しない。と伝えています。これは、会社や家庭でも同じことだと投稿者:加藤は思います。神棚が必ずしも必要とは思いません、神棚とは信仰を忘れないための、眼に見える戒めでしか無いからですが、会社や家庭で、立派な神棚を設置している所が多く見られます。しかし、どんなに立派な神棚が有っても、その場所で人々の喧嘩が絶えず、大きな喧嘩の声がしていては、神は鎮座しないということだと投稿者:加藤は思いますので、この戒めは、岡本天明達だけの戒めではないと理解してよいでしょう。
次に「仮りでよいのぞ」と書かれている所を、一寸だけ考えてみましょう。「江戸の富士と申すのは、ひつくの家の中に富士の形作りて、その上に宮作りてもよいのぞ」との前置き文がありますが、投稿者:加藤は、富士にお宮を祀れ、しかし仮でよい。とも読めますし、岡本天明達の神業に富士山は間違えなく入っているのです。ということは、富士山は動くのです。日月神示にも「富士が動くまで」という記述があります。富士は動くので、仮でよい、これを皆さまはどう解釈しますか?投稿者:加藤は「富士が動くまで」という日月神示の記述からして、大峠の最後が、富士山の噴火だと思っています。だから仮の宮でよいという意味にしか読み取れないと思うのは投稿者:加藤だけでしょうか。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。