第二巻 下 (四百) つ巻 第二十帖 (R6.6.4)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第二巻 下 (四百) つ巻 第二十帖になります。読んで下さい。
第二巻 下 (四百) つ巻
第二十帖 (六二)
上 (うえ) 、中 (なか) 、下 (しも) の三段に身魂をより分けてあるから、神の世となりたら何事もきちりきちりと面白い様に出来て行くぞ。神の世とは神の心のままの世界ぞ、今でも臣民神ごころになりたら、何でも思ふ通りになるぞ。臣民近慾 (ちかよく) なから、心曇りてゐるから分らんのぞ。今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神神様にお目にかけるぞ。てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五 (みよいづ) の仕組ぞ、岩戸開きぞ。いくら学力強いと申しても百日の雨降らすこと出来まいがな。百日雨降ると何んなことになるか、臣民には分るまい、百日と申しても、神から云へば瞬きの間ぞ。七月の二十三日、ひつ九の⦿。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 51頁 より)
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本帖の内容ですが、当ブログをご愛顧して下さる、皆さまには、さほど難しい内容ではないと思います。ですので、本帖の書き出しである「上 (うえ) 、中 (なか) 、下 (しも) の三段に身魂をより分けてあるから」の部分の解釈を、日月神示の枠を超えて、深掘りをしてみたいと思います。当ブログの別カテゴリーである「探求小屋」で連載する予定の「古神道探求」で詳しく探求しますが、古神道を探求していくと、「竹内文書」や「オアスペ」の知識が必要になるのではないかと投稿者:加藤は考えています。そのことを踏まえて「上 (うえ) 、中 (なか) 、下 (しも) の三段に身魂をより分けてあるから」の解釈と考察をしてみたいと思います。
先ず、日月神示の解釈ですが、これはミロクの世に移行した臣民の霊格が身魂の程度により階層化されるという意味であろうと投稿者:加藤は理解しています。さて、ここからは一寸、日月神示を離れて、「竹内文書」と「オアスペ」の内容から、世界の人種について考えてみたいと思います。世界は五ッの人種から始まったと伝えられています。そして、その人種はそれぞれ、決められた霊格で人生をおくるのだと投稿者:加藤は理解 (あくまで投稿者:加藤の理解です) しています。解りやすい例を上げると、人種別に学校の学年が違うと置き換えると理解しやすいと投稿者:加藤は考えています。例えば、人種一番は、幼稚園生で、人種二番は、小学生、人種三番は、中学生、人種四番は、高校生、人種五番は、大学生です。皆さまも経験があると思いますが、上記のように分けたとしても、その各集合の中に、とびっきりの天才が存在することもあります。ですが我々普通の感覚 (ここ大事、普通の感覚では無い日本人も多々存在します) を持ち合わせている日本人にしてみると、「頭大丈夫か?病院行け!」と言いたくなる人種 (国家) ってありますよね?これが人種の霊格 (人間性) の差だと、投稿者:加藤は思います。人間性が低ければ低いほど「体主霊従、我れ善し」の人間となると投稿者:加藤は思います。
日月神示だけを見ると、日本人にだけ向けた神示と考えてしまい、狭い視野での考察になってしまいますので、全く違う角度から「体主霊従」と「霊主体従」を考えてみる事で、理解が進むのでは無いかと思い、今回の投稿のような試みをしてみましたが、いかがでしたでしょうか?機会があれば、また挑戦してみます。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。