第二巻 下 (四百) つ巻 第十七帖 (R6.5.29)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第二巻 下 (四百) つ巻 第十七帖になります。今回の投稿は、順番でいくと第十六帖になりますが (R5.4.4) にて投稿済の帖となりますので、今回は第十七帖へ飛びます。読んで下さい。

第二巻 下 (四百) つ巻

第十七帖 (五九)

 学や知恵では外国にかなうまいがな、神たよれば神の力出るぞ、善いこと言へば善くなるし、わるきこと思へばわるくなる道理分らんか。今の臣民口先きばかり、こんなことでは神の民ちは申されんぞ。天明は神示書かす役ぞ。神の心取り次ぐ役ざが、慢心すると誰かれの別なく、代へ身魂使ふぞ。因縁のある身魂はこの神示 (ふで) 見れば心勇んで来るぞ。一人で七人づつ道伝へて呉れよ、その御用が先ず初めの御用ぞ。この神示通り伝へて呉れればよいのぞ、自分ごころで説くと間違ふぞ。神示通りに知らして呉れよ。我を張ってはならぬぞ、我がなくてもならぬぞ、この道六ヶしいなれど縁ある人は勇んで出来るぞ。七月の二十一日、一二の⦿

(太陽出版 新版 ひふみ神示 49頁ー50頁 より)

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感想(12件)

 本帖を読むには、時代背景を若干考慮する必要があると投稿者:加藤は思います。「学や知恵では外国にかなうまいがな」という書き出しですが、現代の日本人にしてみれば「何をおっしゃるウサギさん」と言いたくなりますが、昭和十九年の日本で、欧米の科学技術に追い付いていたとは、到底考えらません。その裏付けとしては、明治維新以降に日本が手本とし目標としたのが欧米諸国なのです。投稿者:加藤の個人的な意見になりますが、日本という国がオカシクなった分岐点が「明治維新」だと思っています。この話題を書き出すと、長く々々なりますので、止めますが、この欧米文化や科学技術が「我れ善し、体主霊従」が元になった考え方だと投稿者:加藤は考えます。

 「天明は神示書かす役ぞ」とは、そのまま読み取ればよいと思いますが、大切なのは「神の心取り次ぐ役ざが、慢心すると誰かれの別なく、代へ身魂使ふぞ」と続く文章です。岡本天明の名を出して、次の文章で注意を促しています。「日月神示の内容は理解している」とか「大峠が来る事は知っているので、自分は大丈夫」等々の考えの者は、いくら因縁の身魂の持ち主でも「替えの身魂を使う」という意味だと投稿者:加藤は思います。ですので、因縁の身魂が御用を務めるとは、非常に厳しい事なのだと投稿者:加藤は考えます。

 「一人で七人づつ道伝へて呉れよ」ですが、この文章は勘違いしやすいので、注意が必要だと投稿者:加藤は思います。この文章を、そのままの意味で受け取ると、日月神示で禁じている、宗教団体が出来上がってしまいます。ここでは「七」という数字が大切で、この言葉の意味は、この「七」が理解できないと、理解が進まない文章だと投稿者:加藤は思います。いやらしい言い方ですが、理解出来ている人には、投稿者:加藤の解釈は必要無いでしょうが、理解できていない方に「ミロクの法則」は「七」が基本とだけ伝えて置きます。何故しっかり説明しないかというと、この「七」だけを理解しても、理解出来た事にならないですし、だからと言って、この投稿で全てを説明する事も避けたいと投稿者:加藤は思います。前回投稿の (R6.5.28) で書いたと思いますが、「一二七七七七七」や「元の人三人、その下に七人…」も理解しないと、今回の「七」も、中途半端な理解になると投稿者:加藤は考えます。ですので、ここでは七人に伝えれば良いという意味ではないとだけ理解して置いて下さい。日月神示を七人に伝えたから、自分の御用は終わったなどとは、決して勘違いのないように投稿者:加藤は願います。

 「我を張ってはならぬぞ、我がなくてもならぬぞ」日月神示特有の逆説表現です。しかし、逆説表現の話ではなく「我」の言葉の意味を一寸だけ解釈してみたい。第四帖でも「我がなくてもならず、我があってもならず」と書いてありました。この「我」を日月神示的に理解しようと思うと、どうしても大本 (おおもと) の「大本神諭 (おおもとしんゆ) 」や出口王仁三郎の「霊界物語 (れいかいものがたり) 」の知識が必要になって来てしまうと投稿者:加藤は考えます。「七」の理解も同じで、日月神示の深い部分を理解しようと思うと、どうしても「大本神諭」や「霊界物語」に突き当たります。ですので、当ブログの別カテゴリー、探求小屋の方で少し々々でも探求投稿出来ればと思いますが…

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。