第一巻 上つ巻 第二十八帖 (R6.4.8)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一巻 上つ巻 第二十八帖になります。読んでみましょう。
第一巻 上つ巻
第二十八帖 (二八)
世界中まるめて神の一つの詞 (王) で治めるのぞ。それが神のやり方ぞ、百姓は百姓、鍛冶 (かじ) は鍛冶 (かじ) と、今度はとことはに定まるのぞ、身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ、茄子の種に瓜はならんぞ、茄子の蔓に瓜をならすのは悪の仕組、今の世はみなそれでないか。これで世が治ったら神はこの世に無いものぞ。神とアクとの力競べぞ。今度はアクの王も神の力には何うしてもかなはんと心から申す所まで、とことんまで行くのざから、アクも改心すれば助けて、よき方に廻はしてやるぞ。神の国を千切りして膾 (ナマス) にするアクの仕組は分りて居る、アクの神も元の神の仕組を九分九厘までは知ってゐて、天地ひっくり返る大戦となるのぞ。残る一厘は誰も知らぬ所に仕かけてあるが、この仕組、心で取りて呉れよ、神も大切ざが、この世では臣民も大切ぞ。臣民この世の神ぞ、と言ふて鼻高になると、ポキン折れるぞ。七月一日 ひつ九のか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 26頁 より)
ひふみ神示〔新版〕 (Ten books) [ 岡本天明 ] 価格:8800円 |
本帖は、大峠以降に来るミロクの世について書かれたものだと解釈できます。「世界中まるめて神の一つの詞 (王) で治めるのぞ」という書き出しです。これは来るミロクの世の形態を表しています。次に「それが神のやり方ぞ」と続きます。ここで書かれている「王」とは、日月神示で良く書かれている「てんし様 (神) 」であり=スメラミコトのことであり、てんし様を頂点に統治される世がミロクの世の形態だと書かれていると投稿者:加藤は思います。
「百姓は百姓、鍛冶 (かじ) は鍛冶 (かじ) と、今度はとことはに定まるのぞ、身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ、茄子の種に瓜はならんぞ、茄子の蔓に瓜をならすのは悪の仕組、今の世はみなそれでないか。これで世が治ったら神はこの世に無いものぞ」この文章、そんな事は当たり前で、分かっていると言いたくなるほど、言葉としては難しく無いですし、少々横暴では無いかと思える文章です。しかし、そこは日月神示の言葉で、裏読みというか、深掘りが必要な部分だと投稿者:加藤は思います。この部分は、人としての職業の話では無い事を理解しなければなりません。人に向けた神示ではあるのですが、人 (身魂) と考えて読んで行く事が大事です。どういう事かというと、ここの文章全体を細胞単位で読む事が必要です。極論的な例え話になりますが、足の指で箸を使い飯を食う事をする様な生き方をしては駄目だと言う事です。箸を使うのは「手の指=百姓」で、「足の指=鍛冶」では無いのです。ここはネット上になりますので、他の (本当に伝えたい) 例を出し難いのですが、今我々の世の中では、「それ、まずくネェッか?」と思える行動や思考をする人って多いと思いませんか?昔の言葉でいう「育ちの悪い奴」です。例えば、店に入店して来ても、扉を開けっぱなしで、閉める事も出来ないとか…「茄子の蔓に瓜をならすのは悪の仕組、今の世はみなそれでないか」ということにつながる話だと投稿者:加藤は思います。余談になりますが、口悪く言わせて貰えば (炎上覚悟で) 今の日本国には、道徳心のカケラも無い人間が多すぎると (本人は自分が正しいと思っている) 思います。投稿者:加藤の信条は「ノー・ジャッジ」ですので、日々の生活の中では、他人の思考や行動を、心の中だけだとしても「裁く」事はしない様に努めています。これ、結構な苦行ですけど…
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。