第一巻 上つ巻 第十七帖 (R6.3.20)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一巻 上つ巻 第十七帖になります。理解しやすい文章です、読んで下さい。
第一巻 上つ巻
第十七帖 (一七)
この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、お土からとれた物、みな先づ神に供へよ、それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに、神には献げずに、臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ、何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。六月の二十五日、ひつくのか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 17頁 より)
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文章は難しくないと思いますので、二ヶ所ほど投稿者:加藤の解釈を入れた後に、今回は投稿者:加藤の個人的な話を書かせてもらいます。一ヶ所目「お土からとれた物」ここは単純に土と理解しては駄目だと投稿者:加藤は考えます。我々人間の感覚で土というと、田畑を考えがちですが、神の感覚で考えてみれば、土とは地球全体で、もっといえば宇宙全体です。現在の人間には地球全体と思って良いでしょう。ですので、海も川も湖も山も平地もです。そこからとれた物は全て神の物なので、臣民は自分の物と勘違いして、物に執着心などを持ってはいけないのです。二ヶ所目「今の半分」ここでいう今を一寸だけ考えてもらいたい。この神示が降ろされたのが、昭和十九年六月二十五日です。戦争末期で「欲しがりません、勝つまでは」と声高らかにしていた時期です。食糧事情などは現在から比べれば悲惨な時期だと思いますが、それでも半分で良いと神示ではいってます。食べ過ぎると、体は太るけれども、身魂は痩せるのだと投稿者:加藤は考えます。
さて、今回の帖、投稿者:加藤が日月神示と出会い、人生が救われた帖の一番目にあげられる帖です。そこで今回は投稿者:加藤の個人的な話を一ッ書きたいと思います。投稿者:加藤は今現在、帰幽した両親の遺影写真を持っていません。両親の遺影だけでなく、投稿者:加藤の赤子の頃や子供の頃の写真もありません。ひっくるめた言い方をすると、思い出の品は一切ありません。二箇所生活をしていた、片方の家の中身を、丸ごと盗まれてしまったからです。何故そのような事になったかまでを書くと、長文になるので書きませんが、その時の投稿者:加藤の気持ちの変化を、皆さまにお伝えしたいと思います。そりゃ始めは怒りが来ますよ、でもアッという間に怒りは哀れみに変化しました。投稿者:加藤は犯人が誰か知っているのですが、その人は多くの悪しカルマを背負ってしまったでしょう。探求小屋 カルマの探求で書きましたが、カルマはその本人だけでなく、子や孫にまで波及します。投稿者:加藤はその罪人の子供も知っているのです。親が狂っているだけで、子供達がカルマを背負う、哀れな話です。怒り→哀れみ→感謝と投稿者:加藤の気持ちは変化して行きます。なぜ感謝かといえば、投稿者:加藤側からすれば物を失う事で、悪しカルマの清算が出来、本帖の真髄を理解する事が出来たのです。生きて行くためには、神の御用を務めるための物以外は必要無いのです。
本帖の大切な所「この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ」なのです。我々臣民が自分のものと呼んで良いものは「思い出 (記憶) 」だけです。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。