第一巻 上つ巻 第十四帖 (R6.3.17)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一巻 上つ巻 第十四帖です。本帖は、身魂と心の概念について書かれた部分ですので、理解が難しいかも知れませんが、日月神示的な考え方でいうならば、肚に落として理解する事しかないと思います。読んでみて下さい。
第一巻 上つ巻
第十四帖 (一四)
この神示 (ふで) よく読みて呉れよ、読めば読むほど何もかも分りて来るぞ、心とは神民の申す心でないぞ身魂とは神民の申す身魂でないぞ身たまとは身と魂と一つになってゐるもの云ふぞ、神の神民身と魂のわけ隔てないぞ身は魂、魂は身ぞ外国は身ばかりの所あり魂ばかりの所あり神は身魂の別ないぞ、この事分りたら神の仕組みがぼつぼつ分るぞ身魂の洗濯とは心の洗濯とは、魂ばかりの洗濯でないぞ、よく気をつけて呉れ神の申すことちがはんぞよ。六月の二十二日、ひつくのか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 15頁ー16頁 より)
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投稿者:加藤の記憶が正しければ、過去の投稿で、身と魂が合わさって、心が生まれると書いたと思います。もう一度説明すると、身と魂がしっかりと磨かれていないと、邪な心が生まれるという内容の投稿だったと記憶しています。心とは身と魂に左右されてしまうという厄介な物って事ですね。「心の洗濯とは、魂ばかりの洗濯でないぞ」と書かれています。心を洗濯するという事は、魂だけの洗濯では出来ない、という意味に読めます。深掘りすると、心を洗濯する事は、魂と身を洗濯する事であり、心を直接に洗濯する事は出来無いと読みとれます。心とは、身魂しだいだと投稿者:加藤は思います。
今回の帖に降ろされていますので、一応触れたいと思いますが、「魂は身ぞ外国は身ばかりの所あり魂ばかりの所あり神は身魂の別ないぞ」の部分ですが、次回の第一巻 上つ巻 第十五帖 に「顔は神の臣民でも心は外国身魂ぞ、顔は外国人でも身魂は神の臣民あるぞ」と出てきますので、次回の投稿で詳しく書きますが、今回は前振りというか、掴み的に信仰の考え方について触れておきます。投稿者:加藤は、信仰は何でも良いと考えています。例えば、毎日通う喫茶店や赤提灯で、毎日のように会う人の考え方を信仰しても良いのだと思いますし、歴史上の偉人を信仰しても良いし、当然ですが、崇敬神社を信仰の対象にしても良いと思います。大切な事は、信仰の心を持つという事です。信仰の心を持つ事で、障害の壁に突き当った時に、立ち止まり考える事が可能となり、正しい道に自分を信じて進める事が出来る様になると投稿者:加藤は考えます。信仰はブレない気持ちに自信を持たせてくれる物だと思います。その様に考えると、信仰により、心から身魂に影響を働かせる事が出来るのだと思います。一寸、マイナスな考え方かと思いますが、テロリストの親玉を信仰してしまえば、その人はテロリストとしての身魂を磨いてしまいます。投稿者:加藤は「悪も神の御用」と、一応は考えてますので、それはそれでも良いのですが、出来る事ならば「光」の側で御用を勤めたいナァ〜〜と投稿者:加藤は思います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。