第八巻 磐戸の巻 第十三帖 (R5.11.14)
皆さま御機嫌いかがでしましょうか、投稿者:加藤です。本日のお題は、日月神示の第八巻 磐戸の巻 第十三帖です。この帖は長文ですが、過去の投稿を読んでいる皆様には難しい文章では無いと思います。読んでみて下さい。
第八巻 磐戸の巻
第十三帖 (二四九)
コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代世治めるのざ。何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。上の臣民この儘で何とか彼んとか、いける様に思ふてゐるが其心われよしざぞ。今度は手合して拝む乍りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂 (カミタマシ) の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治らんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気 (け) ありたら、先になりてまた大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ。神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治らんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者大き取り違ひいたしてゐるぞ。大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、⦿ (モト) の⦿ (ニホン) の⦿ (カミ) の光クッキリ現はさなならんと仰せあるぞ、早ぅ洗濯せんと間に合はんぞ。この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ。仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。逃道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治らんから今迄の法度 (はつと) からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否 (いや) でも応 (おう) でもそうなって来るのざぞ。神国の政治経済は一つざと申してあろがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。神からわけて下さるのざぞ、其人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝徳相当に集るのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になってそれからマコトの神の世になるのざ。神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札の様なものざぞ。判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一 (ハジメ) ざぞ。このことよく肚に入れて一二三 (ひふみ) として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたらたづねて御座れと申してあろがな。一月十三日、⦿の一二か三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 206頁ー209頁 より)
如何でしたでしょうか、この帖は長文ですが、日月神示で我々に伝えたい事が盛りだくさんだと、投稿者:加藤は思います。何度も読んで肚に落としてもらいたい帖です。尚、太陽出版から発売されている「ひふみ神示」では何故か、もしくは理由があるのか、投稿者:加藤には判りませんが、一ヶ所にルビが無い部分がありますので、説明をします。
「六ヶ敷く」は「むつかしく」と読んで大丈夫だと投稿者:加藤は思います。今回はお題の帖が長文という事と、内容的には難しくないとの理由で、投稿者:加藤の解釈は入れませんので、その分の時間を、今回の帖を何度も読んで、肚に落とす時間に回して下さい。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。