五十黙示録 第五巻 極め之巻 第十二帖 (R8.8.3)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、五十黙示録 第五巻 極め之巻 第十二帖です。お読み下さい。
五十黙示録 第五巻
極め之巻 第十二帖
口先ばかりで、その場限りでうまい事申して御座るが、それは悪の花、 心と行が伴わんからぢや、己 (おのれ) 自身のいくさが終ってゐないからであるぞ。そなたのもつ悪いくせを直して下されよ、それが御神業ぢや。神々様も自分のくせを直すために御苦労なさってゐるぞ、そのために生長する。昨日の自分であってはならんぞ。六十の手習でとまってはならん、死ぬまで、死んでも手習ぢや。お互におろがめよ、おがむと総てが自分となる、おがむところへ集って来て弥栄ぢや。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 817頁ー818頁 より)
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価格:8800円 |
いつものことですが、日月神示の基本十二巻以降の神示 (ふで) に対しては、投稿者:加藤の解釈を避けています。理由はいくつかあるのですが、基本的には、皆さまの解釈を尊重するためになりますので、ご理解していただきたいと思います。
本帖で、疑問に思うと感じる言葉が出てくるのは「そなたのもつ悪いくせを直して下されよ」の中の「そなた」と言う単人称代名詞ですが、この「そなた」とは、当然読み手を指しているようにも読めるし、岡本天明に向けた言葉とも読めることに留意したい所です。次に「エェ〜〜〜ッ」という文章は「神々様も自分のくせを直すために御苦労なさってゐるぞ」という文章です。神々様も「クセ」を直す必要があるの?と思い、考えさせられる文章です。本帖で伝えたい内容は「死んでも (死んだ後も) 」手習 (勉強) だということだと思います。よく「人間、死ぬまで勉強」とは言いますが、ここでは、死んでもという所が大切です。言葉を変えるならば、死んで肉体を無くしても、魂の成長は続くということです。もう一度、言葉を変えると、死んで「ハイ終わり!」では無いということです。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。