第八巻 磐戸の巻 第十七帖 (R5.10.17)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。当ブログをご愛顧くださる皆さまは気付いているかと思いますが、このところ集中的に、日月神示の第八巻 磐戸の巻を投稿しています。日月神示の磐戸の巻は、全二十帖ですので、今回は十一回目の投稿で、ちょうど折返し点になります。特別な事案が無い限り、今後の投稿も当分 (残り九回) も磐戸の巻で行きたいと思います。取敢えず、一ッの巻を終らせたいと思ったので (投稿者:加藤のモチベーションになりますし) 。それでは、本日のお題。第八巻 磐戸の巻 第十七帖を行きましょう、読んで下さい。
第八巻 磐戸の巻
第十七帖 (二五三)
この神はよき臣民にはよく見え、悪き臣民には悪く見へるのざぞ、鬼門の金神とも見へるのざぞ、世はクルクルと廻るのざぞ、仕合せ悪くとも悔むでないぞ、それぞれのミタマの曇りとりてゐるのざから、勇んで苦しいこともして下されよ、上が裸で下が袴はくこと出て来るぞ。神が化かして使うてゐるのざから、出来上がる迄は誰にも判らんが、出来上りたら、何とした結構なことかと皆がびっくりするのざぞ、びっくり箱にも悪いびっくり箱と、嬉し嬉しのびっくり箱とあるのざぞ、何も知らん臣民に、知らんこと知らすのざから、疑ふは無理ないなれど、曇りとれば、すぐうつる、もとの種もってゐるのざから、早うこの神示読んで洗濯して呉れよ、どんな大峠でも楽に越せるのざぞ、神の道は無理ない道ざと知らしてあろが。ミタマの因縁おそろしいぞ。上下わき上るが近うなりたぞ。一月十四日、⦿の一二か三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 212頁ー213頁 より)
今回の帖の解説は、全体の意味では無く、先ず言葉の解釈をしたいと思います。「鬼門の金神とも見へる」ですが、鬼門=丑寅ですので、丑寅の金神と読めます。ですので鬼門の金神は「国常立尊」の事ですね。「世はクルクルと廻るのざぞ、仕合せ悪くとも悔むでないぞ、それぞれのミタマの曇りとりてゐるのざから、勇んで苦しいこともして下されよ」ここの「ミタマの曇りとりてゐるのざ」という言回しですが、身魂の曇りをとるとは、カルマの清算 (R5.9.27) を意味していると読めますので、「仕合せ悪くとも悔むでないぞ」「勇んで苦しいこともして下されよ」とつながります。「神の道は無理ない道ざと知らしてあろが」ですが、ここは説明の必要は無いと思いますが、話の流れで一寸だけ触れて置きます。どんなに大きな苦労でも、乗り越えられ無い苦労は無いと云う意味なのは、皆さまも知っていると思います。しかし、その苦労から、何故に逃げてはいけないかは知らない方が多いと思います。この苦労は、「カルマの清算」だから逃げては駄目なのです。ここで、投稿者:加藤が言う逃げるとは、自ら命を絶つと云う行為に向かう事です。これは、どんな理由があっても駄目です。魂の成長を、自分で勝手に終らせる事が許され無い行為だからです。「ミタマの因縁おそろしいぞ」と書かれています。日月神示には、大難を小難にすると云う事が良く出てくるのですが、本来は大峠を小峠にすると云う意味で出ていると思われますが、投稿者:加藤は、個人の身魂磨きや「カルマの清算」にも当て嵌まると考えています。だから身魂磨きが大事になるのだなぁ〜と。
何か今回の投稿は纏まりの無い文章になってしまいスミマセン、ですが今回の内容は以上です。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。