第八巻 磐戸の巻 第七帖 (R5.10.3)

 皆さま御機嫌いかがでしましょうか、投稿者:加藤です。本日のお題は、日月神示 第八巻 磐戸の巻 第七帖です。少々難解な文章ですが、当ブログをご愛顧下さる皆さまは大丈夫でしょう。聞いた事が無い言葉を、後で一寸だけ解説して置きますので、先ずは読んでみて下さい。

第八巻 磐戸の巻

第七帖 (二四三)

 人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ、肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や禍は見当とれまいがな、真通理 (まつり) 第一と申すのざ、神のミコトにきけよ、それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならんのざ。神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ。右行く人、左行く人とがむるでないぞ。世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、この道理わかりたか、この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ、今迄の様な宗教や教の集団は潰れて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるざぞ、早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ。この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望すみたとて、すぐによいことばかりはないのざぞ、二度とないことであるから臣民では見当とれんから、肚の底から改心して、すなほに、神の申す通りにするのが何より結構なことざぞ。一月七日、⦿のひつ九か三。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 201頁ー202頁 より)

 前文で書いた、聞いた事がある様な、ない様な言葉「天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ」ですが、皆さまは「天理教」は聞いたことがあると思います。高校野球でも有名ですしね。ここで出ている天理とは、この天理教の事です。でも金光って何って思う人が多いかと思います。この金光も宗教団体です。マァ、文章の最後が「教えであるぞ」で終わってますから、予想はつくと思いますが、皆さまの予想通りです。過去の投稿 (R5.9.29) でも予告しました、別カテゴリーの「探求小屋」で「日月神示の系譜」と云うお題の投稿を予定していまして、そこに詳しく、この金光の事も解説する予定です。

 (R5.8.29) では、新約聖書 ヨハネの黙示録に付いても触れましたが、今キリスト教徒の多い世界では可成り大変な事になっている様です。日本もこれから、その渦に巻き込まれる事になるのでしょう。「人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、あいた口ふさがらんことになりて来るのざから」と書かれています。でも大丈夫。「早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ」とも書かれていますので、皆さまと共に身魂を磨いて「怖いもの無し」に成りましょう。「それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならんのざ。神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ」と、チョット恐い事が書かれていますが、神に取り憑かれた人間が、街中に沢山歩いている光景を想像すると、ワクワクするのは投稿者:加藤だけでしょうか?

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。