五十黙示録 第三巻 星座之巻 第十五帖 (R8.3.16)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、五十黙示録 第三巻 星座之巻 第十五帖です、お読み下さい。
五十黙示録 第三巻
星座之巻 第十五帖
十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢや、真理ぢや、又三であるぞ、今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢや、このことよくわきまへよ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 790頁 より)
価格:8800円 |
いつものことですが、日月神示の基本十二巻以降の神示 (ふで) に対しては、投稿者:加藤の解釈を避けています。理由はいくつかあるのですが、基本的には、皆さまの解釈を尊重するためになりますので、ご理解していただきたいと思います。
さて、今回の帖は、黙示録らしく超難解な文章だと投稿者:加藤は思います。ですので、少々ですが説明を書かせてもらいます。冒頭の「十二人が一人欠けて十一人となるぞ」ですが、何故に一人欠けなければならないのか?ですが、五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十一帖に「五十の足がイツラぞ、イツラではうごきとれん。四十九として働らいてくれよ、真中の一はうごいてはならん。真中うごくでないぞと申してあろうがな」と書かれていました。また五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第十九帖に「百は九十九によって用 (ハタラ) き、五十は四十九によって、二十は十九によって用 (ハタラ) くのであるぞ、この場合い、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用 (ハタラ) きは地の現れ方であるぞ」と書かれていました。ここから読み取れることは、「百」も「五十」も「二十」も、それ自体では動きがとれないため、「真中の一は動かず」残る「九十九」、「四十九」、「十九」が「地として用 (はたら) く」ということが神理が読み取れます。これを例に本帖の冒頭を読み取れば、解釈は楽に出来ると投稿者:加藤は思います。
「今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢや」の部分ですが、この文章は、色々な角度から解釈が可能だと投稿者:加藤は思います。多くの日月神示研究の専門家の中で「共通している」であろう部分は「四本指八本指」の意味が「四方八方」の「四」と「八」ということです。投稿者:加藤も異論はありませんが「親指が現れて五本十本となった」の部分は、意見が別れます。ここでは投稿者:加藤の考えを述べさせてもらいますが、数多く存在する日月神示研究の方々の中では「異論」的な発想になります。マァ、説明の仕方の問題ですので、行き着く先の答えは同じかとも思いますが… 親指が増えた (岩戸が開いた) ことで、動物的から人間 (神的) になったと投稿者:加藤は理解します。人間の親指的な働きで、物を掴む、物を持つという行為が可能になります。犬や鳥に鉛筆で字を書かせることは、親指が無い (人間的働きをする) ので不可能です。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。