第十七巻 二日ん (ジシン) の巻 第三帖 (R8.3.8)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第十七巻 二日ん (ジシン) の巻 第三帖です。本巻は全十九帖からなる巻なのですが、十九帖全てが長い文章です。ですので、解釈ではないのですが、重要と思われる部分の現代語化が、非常に簡略なものとなります。当ブログでは、一ッの投稿を読むのに必要な時間を五分、長くても十分となるように務めています。理由は読み手の方に、考える時間を持ってもらいたいからなのですが、本巻は、読むのに時間がかかると思いますが、頑張って読んでください。では、本文からお読み下さい。

第十七巻 二日ん (ジシン) の巻

第三帖

 愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する。弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神津である。霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。極内は極外に通じて *記号1 を為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。 *記号1 は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その用に於ては千変万化である。千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する全てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果す。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実が益々単にして益々充実し、円通する。されば、⦿の中の • の中なる⦿の • の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが、大歓喜そのものであって、神は、個の • に弥栄し給えるが故に、最外部の〇の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。始めなき始めの • の真ん中の真空にいますが故に、終りなき終りの〇の外の無にいまし、中間に位する力の◎の中に生命し給うのである。一物の中の • なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生命の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。歓喜に向うとは親に向うことであり、根本に通ずることである。世をすて、外部的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。囚が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり呼が長くなれば吸もまた長くなる。故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。地獄は本来ないのである。また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 390頁−393頁 より)

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 毎度々々の事ですが、今回も投稿者:加藤の解釈ではなく、本帖の大切と思はれる部分を、現代語にしておきたいと思います。

 地上人は後ろにいる霊人 (守護霊) によって存在し、霊人は地上人によって呼吸する。地上人は社会生活の中で弥栄することで、神とともに歓喜ができている。天国へ至るには、世を捨て、物を捨て、欲を捨てるという考えは、大いなる間違いである。それでは守護霊が呼吸できなくなる。善は悪があって成りたち、愛も憎があって成りたち、光も暗があって成りたつ。どちらか片方を極めようとしても、必ず対立する両方が、同じ分だけ強くなっていく。そもそも本来は、悪も憎も暗も地獄も存在しない、相対的なものなのである。

 こんな感じかなぁ〜

 今回はここまで、読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。