カルマ 探求 (R5.9.27)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、予告していた「カルマ」についての話となります。カテゴリー「探求小屋」への記念すべき?第一回目の投稿です、今後もカテゴリー「日月神示」と共にカテゴリー「探求小屋」の方も宜敷く御願い致します。今回のお題は「カルマ」ですが、皆さまも一度は聞いた事がある言葉だと思います、ですが「カルマ」の意味が良く解らないという方がほとんどではないでしょうか。投稿者:加藤なりに、頑張って理解しやすい様に説明して行こうと思います。しかし一度の投稿で語り尽くす事は不可能 (本が一冊書けちゃう) ですので、今回の投稿では「良く解らない」「考えると矛盾が出てくる」などの疑問を先に解決してみたいと思います。折を見て「カルマ」の説明は、投稿者:加藤も含め、当カテゴリーにて皆さまと一緒に探求して行きたいと思います。

 「カルマ」という言葉は、元々仏教用語で、「業」とか「行」とか「因果応報」とかの意味とされています。自らの行は、自分に戻って来ますよ。って言う教えですね。しかし、この仏教的な教えでは問題が発生してしまいます。仏教的な教えによれば、善行を行えば、いつかは自分に良い事になって帰って来ると云う事になっていますが、自分が良い事と思っていても、相手にとっては悪い事かもしれません。となると、そこで善行と思っていた事が、悪行にとって変わってしまいます、俗に云う「偽善、思い上がり、勝手な解釈ですね」。一ッ例を上げると「目には目を、歯には歯を」と言う有名な言葉がありますが、この言葉の本当の意味を知る人は少ないと思います。本来の意味は、如何なる理由があっても、目を潰された人が、目を潰した相手に対して、目を潰す以上の罰を与えてはいけない、という法です。目を潰されたら困るだろうと思い、代わりに腕を切り落とした。目より腕の方が善いと、此方が判断しても、相手にしてみれば、目を失った方が善かったかも知れません。何故この例を上げたかというと、今の我々が法律として厳守している法は、所詮人間が勝手に決めた法律です。ここで法律批判や宗教批判をする気は無いです (「悪法もまた法なり」と云う有名な言葉の通です) が、仏教に対して一ッ明確にして置かなければならない事は、仏教は人間(ゴータマ・シッダールタ)が神の境地に辿り着いた事が元で発生した宗教であるという事です。他の宗教も基本的には同じ (いきなり神を信仰している宗教は別です、キリスト教でも、旧約聖書は神の信仰ですが、新約聖書に突入すると、神の子と称する (「Jesus Christ イエス・キリスト」) 人間が出て来ますので、人間のエゴが見え隠れします) 元は人間です。人間は、魂の他に肉体を所有しています。この肉体が厄介者で、肉体は魂の記憶等を一切封印してしまいます。ですので、魂の考えでは無く、肉体に在る脳や感情に左右された生き方が正しいと思い込んで生きています。人間に正しい生きかたが存在するならば、国毎に違った法律などが発生する事などあり得ません。元々神には、善と云う概念も、悪と云う概念も存在しません。善も悪も人間が勝手に、かつ都合良く具現化したものにすぎないのです。

 さて話を「カルマ」に戻しましょう。我々の魂の成長のために「カルマ」は必要です。肉体と云う不自由な被り物が無ければ、体験出来ない体験をしなければ、魂の成長が無いからです。肉体が直接的に体験してい無いという事は、机の上だけの話になり、経験とは程遠い事になってしまいます。もし貴方が過去生で、刃物に刺されて死んだ経験があるとします。そうすると、貴方は「カルマ」によって、いつの日か人を刺し殺さなければなりません。これが因果応報「カルマ」です。「カルマ」の意味を追求して、矛盾を感じる事があるとするならば、それは「カルマ」の考え方が矛盾しているのでは無く。人間の勝手な思考回路が矛盾しているのです。私は良い人間なので、他人をを刺し殺す事などは無い。と考えれば、矛盾が発生します。そうでしょうか?人生は何が起こるか分りません、刺す気が無くても、何らかの拍子に人を刺し殺してしまうかも知れません。「カルマ」を前にして、良い人間などと云う、人間の勝手な思い込みは存在し無いのです。「起こる事が、起こるようにして起こる」だけです。

 「カルマ」には人間にとって、よい事が降り掛かる事もあれば、悪い事が降り掛かる事もあります。これはあくまでも、人間にとってよいか悪いかであって、「カルマ」がそのよい悪いを選んでいる訳では無いのです。しかし、仏教的な教えの前では、善良に生きなければ、悪い「カルマ」が降ってきますよ。これでは一方通行の教えで、人間を惑わします。人間にとって善いカルマと、悪いカルマが存在している事の全てを教えられないならば、入り口も教えない方がよいと投稿者:加藤は思います。「カルマ」の意味が良く解らないのは、悪いことが起きた時だけ、「重いカルマだ」と思うからです。善い事が起こっている事も「カルマ」なのです。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。