五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第六帖 (R7.12.8)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、五十黙示録 第二巻 碧玉之巻 第六帖になります、お読み下さい。

五十黙示録 第二巻

碧玉之巻 第六帖

 わざわひと言ふものは無いのであるぞ、光をわすれ、光にそむくから、イヤな事がおこるぢや、影がさすのぢや、禍とか悲しみとか言ふくらい (暗い) ものがないのがマコトであるぞ、中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢや。この世の大泥棒をタカヤマぢやと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴 (つか) まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 769頁ー770頁 より)

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 いつものことですが、日月神示の基本十二巻以降の神示 (ふで) に対しては、投稿者:加藤の解釈を避けています。理由はいくつかあるのですが、基本的には、皆さまの解釈を尊重するためになりますので、ご理解ください。

 と… なるのですが、本帖はなかなかに面白い帖になりますので、少々の蘊蓄を書かせてもらいます。「禍とか悲しみとか言ふくらい (暗い) ものがないのがマコトであるぞ」と書かれていますが、五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第三帖に「岩戸の開けたその当座は、不合理に思えることばかり出てくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ」と全く正反対のことが降ろされています。投稿者:加藤は、この正反対の神示を「真我」と「自我」の立場によって、双方共に正解だと思っています。「真我」の立場であれば、禍、不合理、嫌なこと、などは本来無いのだが、光を忘れて光に背く状態の「自我」が優勢になれば、「体主霊従=我れ善し」や「力主体霊=強い者勝ち」の性来に堕ちるということだと投稿者:加藤は思います。日月神示を読む上で、これが「正解」ということはないと思いますが、この「真我」と「自我」を頭の片隅に置いて、本帖の後半を読むと、理解はしやすいのではないかと投稿者:加藤は考えています。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。