第八巻 磐戸の巻 第三帖 (R5.8.29)
皆さま御機嫌いかがでしましょうか、投稿者:加藤です。今回は気楽に読み、気楽に考察してみたいと思います。喫茶店で休憩中に読む漫画(漫画的とは言っても、日月神示の中の文章である事は忘れないで下さい)という気持ちで読んでみて下さい。その御題は第八巻 磐戸の巻 第三帖です。
第八巻 磐戸の巻
第三帖 (二三九)
二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこいよいよとなりたぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。大峠となりたらどんな臣民もアフンとしてもの伝へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかとじだんだふんでも、其時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ。一月一日、⦿のひつ九か三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 198頁 より)
話を進める前に、インターネット上には、この帖を引用し、新約聖書の黙示録に付いて書かれているページが多く見受けられます。それらのページは、日月神示は日本人に向けた、聖書の解説書だという見解が多いですので、チョイと補強して置きます。【日月神示の系譜】というタイトルで、別カテゴリーにて投稿予定である内容の宣伝的になりますが、聖書(旧約聖書と新約聖書と死海文書の聖書全般を含む)と、岡本天明による日月神示が世に出る以前の神示(別カテゴリーで投稿予定)や、日本の記紀などを冷静に見詰めてみると、どちらが古くからの伝え事なのかが見えて来ると思います。特に新約聖書中の黙示録となると、歴史は非常に浅くなります。マァ、人類に伝えたい事は同じなので、どちらが入口でも良いのですけどね。「日月神示は岡本天明」との情報しか無ければ、日月神示は黙示録の解説書だと思われても仕方ない事なのですが…
日本人と日本人以外の人々との決定的な違いは、日本人以外の人々のほとんどが、現生が全てだと考えている事です。もちろん全ての人では無いです。魂が目覚めた人が日本人以外にも多くいる事でしょう。しかし、日本人は日本人以外の人間よりも、日本人として存在を開始した時から、魂が本来の目的に対しての目覚めに近いと云う事実は変える事が出来ません。チョット難しい表現になってしまっているので、補足すると、日本人の多くは、潜在的に「現生は魂の成長過程である」事を理解しているのです。ですので「現生が全て」と考える人間とは、どこまで行っても平行線上となってしまいます。日本人は日本人以外の考え方(現生が全て)を理解できますが、日本人以外は日本人の考え方(現生は魂の成長過程)を理解できません。と言うか、理解出来る筈が無いのです。現生が全てでは、次が無いのですから。何が言いたいのか?と問われそうですが、新約聖書の黙示録も、日月神示と同じく預言の書です(予言では無いですよ)しかし、大きな違いは、誰に向けて書かれたかです。すごく簡単に(お叱りを覚悟で)言うと、聖書では現生で、悔い改めれば、神の国に入れる、以上。悔い改めれば、現生で終了です。しかし、日月神示的と云うか、神道的と云うかの方は、身魂をドンドン磨いて、次の人生で弥栄えろと伝えています。永遠に終わりが無いのです。
さて「春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ」と書かれています。此処を読んで、聖書の黙示録以外を頭に浮べる人はいないでしょうね。「ハルマゲドン」これは地名で、完全に日本語ではありませんしね。岡本天明の時代は、大東亜戦争(第二次世界大戦)の真っ最中ですので「春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケて」は敗戦の預言でしょう。ハルマゲドン(大洗濯、大峠)に向かうには、日本が敗戦国(本当は敗戦国では無いのですが)と云う流れをを造らなければならなかったのでしょう。
日月神示には、この帖以外でも、新約聖書の黙示録をイジった帖があります。七つのラッパ、七つの巻物と馬、悪魔の刻印などです。それらの帖はまた、休憩が必要だなぁ〜と感じた時に、投稿します。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。