五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十二帖 (R7.10.15)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十二帖です、お読み下さい。
五十黙示録 第一巻
扶桑之巻 第十二帖
進 (タテマツ) る宇都の幣帛きこしめしたべ。神の御手に巻物があるぞ、その巻物の数は五十巻ぢや、この巻物を見たものは今迄に一人もなかったのであるぞ、見ても判らんのぢや。巻物を解いて読もうとすれば、それは白紙となって了うのであるぞ、人民には判らんなり。説くことは出来んなり、この巻ものは天の文字で書いてあるぞ、数字で書いてあるぞ、無が書いてあるぞ、無の中に有がしるしてあるぞ、心を無にすれば白紙の中に文字が現はれるのであるぞ、時節参りて誰の目にも黙示とうつるようになった、有難いことであるぞ、岩戸がひらけて愈々の時となったのぞ、始めからの巻物よく読んで下されよ、よくよく分けて下されよ、何も彼も一切ありやかに刻まれてゐるぞ、残る十二巻と一巻は人民では判らんぞ、無の巻物ぞ、空に書いてあるぞ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 760頁ー761頁 より)
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価格:8800円 |
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本帖の冒頭も片歌となります。幣帛とは神前にささげる布帛 (ふはく) 、酒食、金銭などの供物をさします。宇都とは、幣帛という言葉を修飾している言葉です。全体的な意味としては「御神前に幣帛を奉ることをお聞き入れください」という感じだと思います。
本帖も黙示録らしく難解な文章だと投稿者:加藤は思います。注目しておきたい部分は「始めからの巻物よく読んで下されよ、よくよく分けて下されよ、何も彼も一切ありやかに刻まれてゐるぞ」の部分です。最近の投稿で投稿者:加藤がよく書いていることと通じると思いますが、皆さまには是非とも基本十二巻をもう一度と言ず、肚に落ちるまで読んでもらいたいと思います。当ブログの基本十二巻の解釈では、日月神示の文章の癖?のようなことも説明して来たつもりです。それを考えて皆さまなりに基本十二巻以外の神示を読み解いてもらいたいと投稿者:加藤は願います。日月神示は八通りに読めるといいますが、八通りとは、各人が各人として受け取れるという意味だと投稿者:加藤は思います。
これから書くことは、???と思うかもしれませんが、日月神示の基本十二巻の後の巻を読む時に役にたつと思いますので、一応ですが書いておきます。基本十二巻を身 (実在の目と耳) で読んだ後に、もう一度基本十二巻を魂 (心の目と耳で) で読んでみて下さい。そうすることで、基本十二巻以降の日月神示を身魂両方で読めるようになると思います。なかなかに難しいことだとは思うのですが… こんな表現の仕方しか出来ずに申し訳ありません。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。