五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十一帖 (R7.10.13)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十一帖です、お読み下さい。
五十黙示録 第一巻
扶桑之巻 第十一帖
沖つ藻葉辺津藻葉ぞ、母しらす御国の五のハタラキは何れも十のつばさを持ってゐるぞ、足は十本であるぞ、更に五十のつばさとなりなる仕組、五十の足がイツラぞ、イツラではうごきとれん。四十九として働らいてくれよ、真中の一はうごいてはならん。真中うごくでないぞと申してあろうがな、時過ぎてタネまく人民多いのう、人民と申すものは天狗ざから、自分はよいのだが、世の中悪いのざと申してゐるなれど、世の中と申すものは大神のハタラキの現れであるから、大神の中でのうごきであるから、世の中が悪いと思ふのは、大神が悪いと思ふことになるのぢやぞ、其処に底知れぬ程の魔の仕組があるぞ、気つけおくぞ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 760頁 より)
|
価格:8800円 |
![]()
本帖の冒頭も片歌だと思われますが、今までの「五七七」調の片歌ではなく、強引な言い方をすれば「五五」調の片歌?です。この後の第十二帖から第十五帖の冒頭も全て「五七七」調の片歌となっていますので、本帖だけが特異な冒頭となっています。歌の意味は、藻葉とは「海藻」のことで、沖つ藻葉とは「沖合 (深い海) に生える海藻」となります。辺津藻葉とは「岸辺 (浅い海) に生える海藻」となりますので、全体の意味としては「深い海と浅い海に生えている海藻」となります。
本帖の解釈は、投稿者:加藤としては避けますが、本帖は黙示録らしく「数字」が多く出て来ていまして、難解かと思います。日月神示の基本十二巻に立ち戻り、神示をよく読んで、皆さまなりに意味を見い出してもらいたいと思いますが、投稿者:加藤なりのヒントを出すならば、本帖は神から岡本天明に宛てた文のような気が投稿者:加藤はしています。「時過ぎてタネまく人民多いのう」と書かれている通り、身魂磨きが進んでなく、手遅れになってからの身魂磨きではダメなのだと伝えている文だと思います。「人民と申すものは天狗ざから」と書かれている部分などは、岡本天明達に、天狗になっているぞと伝えている文章だと投稿者:加藤は思います。それに岡本天明達だけではなく、日月神示の内容を少しでも判った気になっている人々にも向けた言葉なのでしょう。投稿者:加藤も天狗にならないように気をつけなければならないと、日々思っています。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。