第十三巻 アメの巻 第十帖 (R7.10.5)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一三巻 アメの巻 第十帖です、お読み下さい。
第十三巻 アメの巻
第十帖 (三四四)
天の岩戸開いて地の岩戸開きにかゝりてゐるのざぞ、我一 (いち) 力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう勘忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ。ひどい所程身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂 (みたま) の悪き事してゐる国程厳しき戒 (いましめ) 致すのであるぞ。五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除計りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死 (うえじに) すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉体息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなって死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるがキは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ。臣民利巧 (りこう) なくなれば神のキ入 (はい) るぞ、神の息通ふぞ、凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろがな、三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから何処 (ドコ) 探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組ならこんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示肚にはいれば未来 (さき) 見え透くのざぞ、此の地 (つち) も月と同じであるから人民の心其儘に写るのであるから人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。理屈悪と申してあろが悪の終りは共食ひぢゃ、共食して共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ。オロシヤの悪神の仕組人民には一人も判ってゐないのざぞ。神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟の乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ。雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様に祈りなされよ、世の元からの生通しの生神様拝がみなされよ。日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ。でかけのみなとは九九 (ココ) ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、此の神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥かしい思してお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近付いたぞ。世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何 (ど) ちら行くつもりぢゃ。十一月二十七日、一二⦿。
* 引用文献に誤字がありましたので、修正して投稿しています。誤:勤忍して呉れ、正:勘忍して呉れ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 297頁−299頁 より)
ひふみ神示〔新版〕 (Ten books) [ 岡本天明 ] 価格:8800円 |
今回も投稿者:加藤の解釈ではなく、本帖の大切と思はれる部分を、現代語にしておきたいと思います。
1945年現在、天の岩戸は開いて、地の岩戸が開こうとしているのだぞ。ここからは、理屈と理屈、悪と悪が共食いする時代に入っているのだぞ。まだ、この世はオロシヤの悪神の仕組みを、何一つとして気付いていないのだぞ。しかし、神が何とかしてやるから、神示をしっかりと読んで、大舟に乗った気で見ておれよ。光の世には、港から船が出るというのに、いつまでも道を走っていたら、後戻りばかりだぞ。
ってな感じですかねぇ〜
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。