五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第一帖 (R7.8.13)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第一帖です、お読み下さい。
五十黙示録 第一巻
扶桑之巻 第一帖
東は扶桑 (二三) なり、日 ( ⦿ ) 出づる秋 (とき) は来にけり。この巻扶桑 (二三) の巻、つづく六の巻を合せて七巻一百四十四帖の黙示を五十 (いせ) 黙示と申せよ。
イシもの言ふぞと申してありたが、イセにはモノ言ふイシがあると昔から知らしてあろうがな、五の一四 (イシ) がもの言ふのであるぞ、ひらけば五十となり、五百となり、五千となる。握れば元の五となる、五本の指のように一と四であるぞ、このほうを五千の山にまつれと申してあろうが、これがイチラ (五千連) ぞ、五十連 (イツラ) ぞ、判りたか、五十連世に出るぞ。
天に神の座あるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ。七の印 (しるし) と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ、天は三であり、地は四であると今迄は説かせてあったなれど愈々時節到来して、天の数二百十六、地の数一百四十四となりなり、伊邪那岐三となり、伊邪那美二となりなりて、ミトノマグハイして五となるのであるぞ、五は三百六十であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、天は数ぞと申してあろう、地はいろは (意露波) であるぞ。判らん者が上に立つこと • なるぞ、大グレン目の前、日本のみのことでないぞ、世界中のことであるぞ、今度は三千世界が変るのであるから今迄のようなタテカヘではないのであるぞ。何も彼も鏡にうつるのであるぞ。鏡が御神体であるぞ、何もうつらん御神体のカガミは何もならんぞ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 753頁−754頁 より)
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価格:8800円 |
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日月神示 五十黙示録の投稿を不定期ですが、始めていきたいと思います。「五十黙示録」は超難解な神示だと投稿者:加藤は感じています。投稿者:加藤自身も「???」な部分が多く、いまだに「まだまだダナァ〜」と感じています。先ず「五十」と書いて、「イセ」と読ませています。岡本天明の終の棲家が三重県の北部でした。従って「伊勢の国にて、岡本天明に降ろした黙示録」という意味だと投稿者:加藤は思います。日月神示を読む上で、非常に大切なことは、「基本十二巻 (既に投稿済ですが…) 」をよく肚に入れるということです。しかし、他の部分の神示も目を通すことは、それはそれで大切なことだと思いますので、投稿は続けていきます。
「東は扶桑 (二三) なり」とは聞きなれない言葉だと思いますので、説明します。扶桑という言葉を調べてもらうと解ると思いますが、日本国のことを指しています。ただし、単純に日本という国名に代ものではありません。霊的に神国日本=扶桑と考えてもらいたいと投稿者:加藤は思います。
本帖には数字がたくさん出てきていますが、投稿者:加藤は算数・数学が非常に苦手です。ですので物理の話も数字が出てくると「お手上げ」です。投稿者:加藤のことをよく知る「友人達 (その中でも物理に詳しい) 」は、物理学の話を理系的ではなく、文系的に説明してくれるので理解しやすく、とても感謝しています。話を戻し、本帖の数字ですが、数字に強い人には「ウンウン、なるほど」と思う様子ですが、投稿者:加藤には、その説明を聞いても「ウン?」なのです。感覚的にしか解りません。「感覚的に解るって、それはそれでスゲェな」と言われますが、人にはそれぞれ得手不得手がありますのでね!
最後に「この巻扶桑 (二三) の巻、つづく六の巻を合せて七巻一百四十四帖の黙示を五十 (いせ) 黙示と申せよ」の部分で、五十黙示録は、全144帖からなる「黙示録」と書かれていますが、143帖しか世に出ていません。岡本天明の手記によれば、第三巻 星座之巻 第二十四帖が「未発表のため欠帖となっております」と説明されています。「144帖の黙示録」の中の「144」という数字は、天と地を表す大切な数字だと考えられているそうで、「143」の帖という意味は、地上世界=神国日本に降ろされた黙示の数なのだと解釈している、日月神示研究家の人もいます。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。