第一二巻 夜明 (四あ) けの巻 第八帖 (R7.7.20)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一二巻 夜明 (四あ) けの巻 第八帖です、お読み下さい。

第一ニ巻 夜明 (四あ) けの巻

第八帖 (三二八)

 直会 (なをらひ) も祭典 (まつり) の中ぞ。朝の、夕の、日々の人民の食事皆直会ぞ。日々の仕事皆まつりぞ。息すること此の世の初めのまつりぞ。まつれまつれと申してあろが。おはりの御用ははじめの御用ぞ。まつりの御用ぞ。オワリノ十ノヤマに祀れよ。世につげて呉れよ。役員皆宮つくれよ。宮とは人民の申す宮でなくてもよいのざぞ。一の宮、二の宮、三の宮と次々につくり呉れよ。道場も幾らつくってもよいぞ。神の申した事なさば成るのざぞ。宮と道場つくり神示読んでまつれまつれ、まつり結構ぞ。奥山にはオホカムツミの神様もまつり呉れよ。守りは供へてから皆に下げて取らせよ。五柱、七柱、八柱、十柱、十六柱、二十五柱、三十三柱、三十六柱、四十七柱、四十八柱、四十九柱、五十柱、五十八柱、五十九柱、世の元ぞ。八月の二日、アメのひつくの神。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 276頁 より)

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 本帖の書き出しにある「直会 (なをらひ) も祭典 (まつり) の中ぞ」の言葉ですが、一般の人には馴染みのない言葉だと思います。「直会 (なをらひ) 」とは、神道で神事 (まつり) が終わった後に、神饌 (神前に供える米、水、塩、酒、その他、海、山、川、野から採取した食物) を下げて、酒宴を行うことをいいます。酒宴と聞くと、儀式や会議、イベントなどが終わった後の「打ち上げ」というイメージが強いと思いますが「朝の、夕の、日々の人民の食事皆直会ぞ」とも書かれていますので、このことを深掘りして考えるならば「我々の日々の食事」=「直会 (なをらひ) 」=「神饌」=「神事 (祭典 (まつり) 」となり、食事は先ず、神に供えてから、食せということになり、もっと深掘りすれば、国常立大神の身体そのものである、日本国から採取された食物は全て「神饌」ということになるのだから、感謝し直会 (食事) をしなさいと読めると投稿者:加藤は思います。

 「日々の仕事皆まつりぞ。息すること此の世の初めのまつりぞ。まつれまつれと申してあろが」ですが、呼吸をすることも「まつり=仕事」と書かれています。言葉を変えて解釈するならば、生きていること自体が仕事というふうに受け取れる言葉だと投稿者:加藤には思えます。人間が生きていること自体が「まつり=仕事」ですので、ここの意味は極めて重要な伝えだと投稿者:加藤は思います。余談になりますが、スーパー・マーケットや、ファースト・フード店等々のレジで、嫌々な顔と態度で仕事をしている人を見かけることがあると思います。そんな時に投稿者:加藤は「嫌なら仕事を辞めればよいのに」と思ってしまいます。仕事が出来ることへの感謝がない人に、感謝の気持ちを伝えようとしても、なかなかに伝わらないことでしょう。感謝の心を持っている人は、言葉に出さなくても、朝目覚めたら「今日も一日、生きていける」と感謝し、「食事をすれば、今日も地球からの恵をいただける」と感謝し、仕事をすれば「今日も仕事が出来ている」と感謝し、寝る前には「今日も一日、よい一日だった」と感謝するでしょう。人間とは本来、常に感謝して生きることを求められていますし、自らも求めています。ですので自死 (自殺) などは、三千世界の何処をみても、決して許される行為ではないのです。

 「五柱、七柱、八柱、十柱、十六柱、二十五柱、三十三柱、三十六柱、四十七柱、四十八柱、四十九柱、五十柱、五十八柱、五十九柱、世の元ぞ」ですが、日月神示 第一巻 上つ巻 第十三帖にも、同じ内容が書かれていましたので、もう一度引用しておきます「元の人三人、その下に七人、その下に七七・四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ」と書かれていました。この五十九柱の因縁の御霊は、一度に五十九柱が集まるのではなく、神仕組の進展状況に応じて、必要な時に必要な因縁の身魂が集められるのだと投稿者:加藤は理解しています。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。