第一二巻 夜明 (四あ) けの巻 第五帖 (R7.7.14)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一二巻 夜明 (四あ) けの巻 第五帖です、お読み下さい。
第一ニ巻 夜明 (四あ) けの巻
第五帖 (三二五)
何もかも神示読めば判る様になってゐる事忘れるでないぞ、此の仕組云ふてはならず、云はねば判らんであろうなれど、神示読めば因縁だけに判るのざぞ。石物云ふ時来たぞ。山にも野にも川にも神まつれと申してあること、忘れるでないぞ、型せと申してあらうが、いづれも仮ざから三千世界の大洗濯ざから、早よ型してくれよ。型結構ぞ。何もかも神人共にするのざぞ。夜明けたら、何もかもはっきりするぞ、夜明け来たぞ。十理 (トリ) 立てよ。七月二十八日、あめのひつくのかみ神示書。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 274頁 より)
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価格:8800円 |
本帖だけでなく、日月神示では何度も出てきている表現の「何もかも神示読めば判る様になってゐる事忘れるでないぞ、此の仕組云ふてはならず、云はねば判らんであろうなれど、神示読めば因縁だけに判るのざぞ」の部分ですが、日月神示 基本十二巻 (第一部) の最終帖ですので、当ブログをご愛顧くださる皆さまの中で「投稿者:加藤。キツイぞ!」と思う方もいるかと思いますけど気を悪くせずに読んでください。「此の仕組云ふてはならず、云はねば判らんであろうなれど」とは、日月神示に降ろされている内容が、一般的には普通の考え方 (一筋縄) では理解出来ないものであることが前提です。身魂磨きが進んでいない「我れ善し、体主霊従」の人間には決して理解出来ない内容なのだと投稿者:加藤は思います。また、身魂磨きが進んでいない「我れ善し、体主霊従」の人間が理解出来たと思っているのならば、思い込みの誤解でしかないとも投稿者:加藤は思います。「何もかも神示読めば判る様になってゐる事忘れるでないぞ」の部分も、何度も書かれている内容です。何度も何度も降ろされている理由は、何度降ろしても、日月神示を肚に落として理解している臣民が少ないからだと投稿者:加藤は思います。
「型せ」とは、「型を出せ・型出しをせよ」との意味で、ミロクの世に至るには「型」→「実現 (日本) 」→「実現 (世界) 」という三段階の移写で起こるのが神仕組の原則だと投稿者:加藤は理解しています。
本帖の内容は、当ブログをご愛顧くださる皆さまには、難しい内容ではないと思います。本帖では直接的に身魂磨きに触れていませんが、本帖の内容は「身魂磨き」が一番大切なことと、伝えている文章だと投稿者:加藤は思います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。