第一一巻 松の巻 第二十四帖 (R7.6.25)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一一巻 松の巻 第二十四帖です、お読み下さい。
第一一巻 松の巻
第二十四帖 (三一五)
早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我 (われ) 死なねば、大我 (われ) もなき道ぞ、元栄えひらき鳴る神、元にひらき成る神、元津神日の神、極みきわまりて足りいよいよ月の神はらみ交わりさかゆ、成りむつ美、神々極まるところ、ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく、歓喜の大道、神々更に動きひらき栄ゆ。元津神のナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む。元津大神かくりみ、次になる神かくりみのナルトぞ、富士栄え、火の運動き、うづまき鳴り、極みに極みて、地また大地動き、うずまくぞ、真理なりて極まり、鏡の如くなり、極りて、動きひらき、極まりて大道、遂に成るぞ。七月十日、あめのひつくのかみ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 265頁−266頁 より)
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価格:8800円 |
今回の帖は前回の投稿 (本巻の二十三帖) に続き、難解な帖になり、更に本帖が降ろされた日付と二十三帖の降ろされた日付は同日になりますので、本巻の二十三帖と二十四帖は一揃いで読むほうがよいと投稿者:加藤は考えます。本帖の特徴は「極まる」という単語が、短い文章中に九回も書かれていることです。二十三帖は「永遠に弥栄える神の道」を伝える文章でしたが、本帖の「極まる」も違う言い回しで、同じ題目を伝える文章だと投稿者:加藤は思います。
「立体の真道に入るは、小我 (われ) 死なねば、大我 (われ) もなき道ぞ」の部分は臣民の「我」について書かれていると投稿者:加藤は思います。ここでこの文章を解りやすくする方法として、小我と大我の二ッ共に「われ」と振り仮名が付いていますので、この小我と大我を、小我=体主霊従の自我と読み替え、大我=霊主体従の真我と読み替えると、当ブログをご愛顧くださる皆さまには、簡単に意味が通じてくると思います。「立体の真道」とはミロクの世に至る道のことを指しています。
次からの文章は、極めて難解な文章でが… 多くの日月神示研究者の方々が、解りやすい日本語にしてくれていますので投稿者:加藤も、それらの訳を引用させてもらいます。元の神 (日の神) が極まって月の神と交わり栄え、次に日と月の神が、地の神と交わり睦び極まって、ひふみ、よろづ、ち、ももと開き、歓喜の大道となって更に更に栄える。という意味にとれます。二十三帖に書かれていた「日月地更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え」に対応している文章だと投稿者:加藤は考えます。
「ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく」は、本巻の二十一帖で書かれていた「天地 (あめつち) の数歌 (かずうた) 」で、一二三祝詞などの「言霊」に対して「数霊」といえるものとなります。この数霊も、世の元の大神様の「創造原理」であり、「一二三四五六七八九十百千卍 (ひとふたみよいつむななやここのたりももちよろず) *注;六は「むゆ」と発音してもよい」。は元の大神様の創造原理がはたらき、展く様子を表現しているものと投稿者:加藤は考えています。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。