第一一巻 松の巻 第十帖 (R7.6.3)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一一巻 松の巻 第十帖です、お読み下さい。
第一一巻 松の巻
第十帖 (三〇一)
今度役目きまったら、末代続くのざぞ、神示に出た通りの規則となるぞ。善も末代ぞ、悪も末代ぞ。此の世は一であるぞ。われの身体われに自由にならぬ時来たぞ。神に縋 (すが) るより仕方なくなって、すがったのでは、間に合はんぞ。今度はいろはの世に戻すぞ。ひふみの世に戻すぞ。素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻はしてやるぞ。よろこびの身といたしてやるぞ。六月二十四日、あめのひつ九のかみしるす。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 258頁 より)
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価格:8800円 |
本帖は「ミロクの世」と「大峠」について書かれていますが、「ミロクの世」の話で、現在の生活をしている我々には、理解しにくい (受け入れ難い) 事柄にも感じる内容かも知れませんが、理解できないということは「我れ善し」の感情が残っているからだと理解しなければならないのだと投稿者:加藤は思います。書き出しの「今度役目きまったら、末代続くのざぞ、神示に出た通りの規則となるぞ」ですが、同じことが書かれた帖が、日月神示 第一巻 上つ巻 第二十八帖にもありますので、一部を抜粋します。「世界中まるめて神の一つの詞 (王) で治めるのぞ。それが神のやり方ぞ、百姓は百姓、鍛冶 (かじ) は鍛冶 (かじ) と、今度はとことはに定まるのぞ、身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ」です。「神示に出た通りの規則」とは神 (世の元の大神=絶対不変の創造神) の規則で「神律 (しんりつ) 」や「天律 (てんりつ) 」のことを指し、人間がその場、その場の都合で作った場当たり的な規則ではありません。「今度役目きまったら、末代続くのざぞ」とは、ミロクの世に移行した身魂の神業は決まっているということです。「私はこの仕事が嫌なので、他の神業がよい」などはアリエナイということです。ここが現在を生きている人間には受け入れ難いかも知れませんが… 目に音を聴き分けてくれ、髪の毛に食物を咀嚼してくれと言っても無理なことと同じで、身魂本来の役目は決まっているのです。投稿者:加藤は、そう考えると理解しやすいのではと思います。
「われの身体われに自由にならぬ時来たぞ」の部分は「大峠」に向けた言葉なのですが、ここの解釈は、沢山の日月神示研究家の中でも解釈がバラバラな部分です。「われの」と「われに」の「われ」とは国常立大神の事ですが、国常立大神の身体が、国常立大神の自由にならない時が来たということで、投稿者:加藤には「最後の大峠」へ突入の宣言と思えます。もう一度書きます「最後の大峠」です、次はありません。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。