第一一巻 松の巻 第九帖 (R7.6.2)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一一巻 松の巻 第九帖です、お読み下さい。
第一一巻 松の巻
第九帖 (三〇〇)
悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、善のやり方始め辛いなれど先行く程よくなるぞ。この世に何一つ出来んと云ふことない此の方のすることぞ。云ふ事きかねば、きく様にしてきかしぞ。因縁だけのことはどうしてもせねば、今度の峠は越せんのざぞ。ここの役員は因縁ミタマばかり、苦労しただけお陰あるぞ。六月二十四日、あめのひつ九のかみしるす。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 258頁 より)
|
価格:8800円 |
本帖の書き出し「悪のやり方は始めはどんどん行くなれど、九分九厘でグレンぞ、善のやり方始め辛いなれど先行く程よくなるぞ」ですが、当ブログを御愛顧してくださる皆さまには、難しい一文ではないと思います。日月神示 第一巻 上つ巻 第一帖に「嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る」と書かれていました。日月神示 第一部の終盤にきて、日月神示の冒頭帖に書かれていたことが、言葉を変えて再び書かれていることに注目しておきたいと投稿者:加藤は思います。「悪のやり方」とは「我れ善し、体主霊従」のやり方ですので「メグリ取り」から逃げ回るやり方ですので、最終的には元に戻り「やり直し」となるのです。一方「善のやり方」は身魂磨きに励み「メグリ取り」に努力するやり方ですので、最終的には喜びがあるやり方です。
「この世に何一つ出来んと云ふことない此の方のすることぞ。云ふ事きかねば、きく様にしてきかしぞ」の部分も、難しい文章ではないと投稿者:加藤は感じますが、誤解を生じさせてしまいそうな書き方ですので、少々の解釈をさせてもらいます。「きく様にしてきかしぞ」の部分ですが、読み違えると神が「強制的に、我々人間を操る」と読めなくもないですが、そうではありません。何故ならば、強制的に行なわされたのでは、魂の成長 (身魂磨き=メグリ取り) にならないからです。例を上げると、貴方は毎朝通る道を車で走っています。昨夜に通過した台風の影響で、まさに目の前で、大木が道路に倒れて来ました、通行が出来なくなり、遠回りをしなければならなくなりました。神から強制的に遠回りの道を行けといわれて、渋々行くのと、目の前で大木が倒れる現場を見て、あと五分か十分、心と時間に余裕を持って行動していれば、遠回りせずに何時もの道が通行可能で、帰宅時には土木事務所によって、大木も撤去されたことでしょう。この例のように、あくまで自分の行いとして、自問させられ、日々成長し、気付きのための神から与えられる手助けと読むことが正解だと投稿者:加藤は思います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。