第十巻 水の巻 第十二帖 (R7.5.11)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第十巻 水の巻 第十二帖です、お読み下さい。
第一〇巻 水の巻
第十二帖 (二八六)
人間心には我 (が) があるぞ。神心には我がないぞ。我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。神にとけ入れよ。てんし様にとけ入れよ。我なくせ、我出せよ。建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直と申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ。てんし様の御稜威輝く御代とする事ぞ。政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時は無くなって仕舞ふぞ。覚悟なされよ。正しくひらく道場鳴り出づ、はじめ苦し、展きゐて、月鳴る道は弥栄、地ひらき、世ひらき、世むすび、天地栄ゆ、はじめ和の道、世界の臣民、てん詞様おろがむ時来るのざぞ。邪魔せずに見物いたされよ、御用はせなならんぞ。この神示読めよ、声高く。この神示血とせよ、益人となるぞ。天地まぜこぜとなるぞ。六月十二日、みづのひつ九の⦿。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 246頁ー247頁 より)
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価格:8800円 |
本帖の鍵となる言葉は「我 (が) 」です。書き出しの「人間心には我 (が) があるぞ。神心には我がないぞ」に関しては、当ブログをご愛顧くださる皆さまにとっては難しい言葉ではないと思います。問題は続く「我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか」だと思います。ここで本帖とは関係無い内容となりますが、投稿者:加藤なりの考えを披露させてもらいます。皆さまは「天命・地命・我命」という言葉を聞いたことはありますか?これは我々「生きとし生けるもの」に与えられた使命のことです。天命とは、天照大御神が瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) が高天原を出る時に与えた三大神勅で「天壌無窮の神勅」「宝鏡奉斎 (同床共殿) の神勅」「斎庭稲穂の神勅」のことをいいます。すごく簡単にこの神勅の内容を説明すると「豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。わが孫よ、行って治めなさい。さあ、出発しなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません」という内容です。ですので、我々の天命は瓊瓊杵尊の目的通りに生きていくこととなります。地命とは、その地に生まれたものに与えられる使命で、我々でいうならば、日本国に生まれた目的を考えて、その使命を生きるということになります。日本人にとっては、天命と深い関係のある使命となります。最後が我命の意味ですが、これは個人の自由意志により、自分の行いたいと思うことに向かい生きるという意味です。この説明では、わかりづらいですが「我 (が) 」とは一ッではないということです。最後に出てきた「我命」ですが、体主霊従ではなく、霊主体従の状態であるならば、我命を思いっきり前面に出して生きてよいと思いますが、そうでないならば「我 (が) 」はないほうがよいのです。日月神示的な言い方をするならば、天命と地命は「真我」であり、我命は「自我」ということだと投稿者:加藤は思います。
「建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ」の部分ですが、この文中の「塵」とは「メグリ」のことをいっています。過去の投稿でも書きましたが、「メグリ」を一ッ残らず洗濯することは、生きている限り不可能に近いので、メグリ取りが終わることはないので、肉体の活動が終わる (帰幽) まで (その後も続くと投稿者:加藤は思いますが… ) 、身魂磨きは続くということになります。
本帖の説明の最後に「幽界」について書いて置きます。日月神示では「幽界」を二ッに分けています。一ッは世の元の大神様が創造された心霊世界で、もう一ッは、人間の悪想念により生み出された地獄的な世界です。日月神示では、人間の悪想念により生み出された「幽界」を「がいこく」と読ませて区別しています。ちなみに、人によっては大神様が創造された「幽界」を「霊界」と呼んで区別している方もいます。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。