第十巻 水の巻 第十一帖 (R7.5.7)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第十巻 水の巻 第十一帖です、お読み下さい。

第一〇巻 水の巻

第十一帖 (二八五)

 神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。何事も神第一結構。カイの言霊 (かへし) キざぞ。キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ。何と云ふ結構なことであったかと、しめつけて目の玉がとび出る事あるのざぞ、そこまでに曇りて居るのざぞ、はげしく洗濯するぞ。可愛い子、谷底に突落さななんかも知れんぞ、いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。早く一人でも多く知らしてやれよ。タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。先見える神徳与へるぞ。いくらえらい役人頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。新しき光の世となるのぞ。古きもの脱ぎすてよ、と、申してあろがな。まこと心になりたならば自分でも判らん程の結構出て来るぞ。手柄立てさすぞ。いくら頑張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ、これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことは、ないのざぞ。神の一厘のしぐみわかりたら世界一列一平になるぞ。* ますかけひいて、世界の臣民、人民勇みに勇むぞ。勇む事此の方嬉しきぞ。富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪るき待つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ六月十一日、みづのひつ九か三。

* 「ますかけ」とは、升掻・枡掻 (ますかき) 升に盛った穀類を、升の線の高さに平 (なら) すために用いる短い棒。斗掻、斗掛。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 245頁ー246頁 より)

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 「神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。何事も神第一結構」と書き出されています。言葉的には、日月神示に興味のある方ならば「当然の事だ!」と感じる文章だと思います。しかし本帖では、あえて隠しているのか?と思うように「キが元ぞと知らしてあろが」と書かれています。これは、神にキを向ける=神第一と読むことが大切になります。対して悪にキを向ける=悪第一ということになります。この内容が神示により注意が示されているということが問題で、自分のキが「神」に向いているのか「悪」に向いているのかなのですが、臣民が「自分は悪魔にキを向けることなどない」と思い込んでいる人が多いということです。悪にキを向けることは、我れ善し、体主霊従の性来に堕ちているということになります。日月神示 第五巻 地 (九二) つ巻 第十七帖に「まことの善は悪に似てゐるぞ、まことの悪は善に似てゐるぞ、よく見分けなならんぞ、悪の大将は光り輝いてゐるのざぞ、悪人はおとなしく見えるものぞ」と書かれています。本帖の中程に「いくら頑張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ」とも書かれています。自分に我があると、神に対して「素直」になることが出来ず、自分の「キ」が神に向かないことになるのだと投稿者:加藤は考えます。

 「カイの御用にかかりてくれよ」とは、岡本天明に向けた指示で、岡本天明達が実際に御用を行ったのは、昭和二十年六月十八日の甲斐一の宮神業と昭和二十年七月十二日の甲斐奥山神業です。

 本帖の説明の最後ですが、日月神示を読む方々には耳にタコができる内容になります。「これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことは、ないのざぞ」と書かれています。これは、「メグリ取りに、これで終了ということはない」という意味で、少しでもメグリが残っている魂は、ミロクの世には行けないとも受け取れる内容になります。ですが投稿者:加藤の解釈では、身魂磨きを自分の驕りで、中断させ (これでよいと思う) ては駄目ということだと解釈しています。我々人間は、生身の体を持っていますし、自分一人で生まれたわけでもなく、自分一人で育って (歳を重ね) いるわけではないので、完全にメグリを取り除くことは、不可能に近いと思います。ですので身魂磨きが大切になるのだと投稿者:加藤は思います。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。