第十巻 水の巻 第九帖 (R7.5.5)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第十巻 水の巻 第九帖です、お読み下さい。

第一〇巻 水の巻

第九帖 (二八三)

 富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ。お山開きまこと結構。松の国松の御代となるぞ。旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三 (ひふみ) のりとコト」入れてのれよ。忘れずにのれよ。その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ。江戸道場やめるでないぞ、お山へ移してよいぞ、役員一度やめてよいぞ。またつとめてよいぞ。めぐりあるから心配あるのぞ。めぐり無くなれば心配なくなるぞ。心配ないのが富士は晴れたりぞ、富士晴れ結構ぞ。日津久の御民何時も富士晴れ心でおりて下されよ。肉体ちっとの間であるが、魂は限りなく栄へるのざぞ。金に難渋して負けぬ様にして下されよ。金馬鹿にしてはならんぞ。あせるでないぞ。あせると心配事出来るぞ。神が仕組みてあること、臣民がしようとて出来はせんぞ。細工はりうりう滅多に間違ひないのざぞ。見物して御座れ、見事して見せるぞ。不和の家、不調 (ふわ) 和の国のささげもの神は要らんぞ。喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。神はうれしいぞ。旧九月八日とどめぞ。六月二日、みづのひつ九のか三。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 243頁ー244頁 より)

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 本帖の説明は、多くのことをカテゴリー「探求小屋」の方へ回さなければ、説明できない内容です。何故ならば、神職者や神道関係者 (神道および古神道研究者を含む) や祝詞に通暁 (つうぎょう) している方でなければ、一般の人々には全く意味が解らない部分が、本帖の文章全体の約八割〜九割をしめているからです。「旧九月八日から大祓ひのりとに天津祝詞の太のりと「一二三 (ひふみ) のりとコト」入れてのれよ。忘れずにのれよ。その日からいよいよ神は神、けものはけものとなるぞ」以降の文章は、ほとんどがこの文章を理解した上での内容になりますので、今回の投稿で「祝詞とは」を説明するには、文章量的に無理が生じますので、凄く簡単にだけ説明します。まず「大祓祝詞」ですが、これは「神道最高」の祝詞とされていて、古代から神事・祭祀を司ってきた中央豪族「中臣 (なかとみ) 氏」に伝わる祝詞で、中臣祓詞 (なかとみのはらいことば) とか中臣祭文 (なかとみさいもん) と呼ばれることもあります。祝詞には「大」の付かない「祓詞 (はらいことば) 」がありますが、これは主に「個人」を対象にしたもので「厄払い」や「合格祈願」などの個人的な祈願を神職者に依頼するもので、「大」の付く大祓祝詞は、「天下万民」「社会全体」の罪や穢れを除くための祝詞で、古来から、天皇崩御、大嘗祭、または悪疫などの大流行や天変地異などが発生したときに、天下・社会に発生した「罪や穢れ」を祓うために奏上されてきたものです。

 さて書き出しの「富士は晴れたり日本晴れ、いよいよ岩戸開けるぞ。お山開きまこと結構。松の国松の御代となるぞ」ですが、富士は晴れたり日本晴れ、これは昭和二十年八月の原爆投下により「日本国の岩戸開き (幕開け) 」を指した言葉で、お山開きまこと結構は昭和二十年六月十日の「奥山遷宮鎮座祭」を指した言葉となり、その結果として、松の国松の御代となるぞ、となるわけですが、勘違いしてはいけないところは、岩戸が開いたので、すぐにミロクの世が来ると思ってはいけないところです。実際の「ミロクの世」の到来はまだまだ先のことだと投稿者:加藤は思います。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。