第十巻 水の巻 第六帖 (R7.4.29)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第十巻 水の巻 第六帖です、お読み下さい。
第一〇巻 水の巻
第六帖 (二八〇)
キが元ぞと申してあろがな。神国負けると云ふ心、言葉は悪魔ぞ、本土上陸と云ふキは悪魔ざぞ。キ大きく持ちて下されよ。島国日本にとらはれて呉れるなよ。小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ。一たべよ、二たべよ、食べるには噛むことぞ、噛むとはかみざぞ、神にそなへてからかむのざぞ、かめばかむほど神となるぞ、神国ぞ、神ながらの国ぞ。かみながら仕事してもよいぞ。青山も泣き枯る時あると申してあろが。日に千人食殺されたら千五百の産屋 (うぶや) 建てよ。かむいざなぎの神のおん教ぞ。神きらふ身魂は臣民も厭ふぞ。五月二日、三のひつくのか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 242頁 より)
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価格:8800円 |
本帖の書き出しは「キが元ぞと申してあろがな」です。この言葉は「神国負けると云ふ心、言葉は悪魔ぞ、本土上陸と云ふキは悪魔ざぞ」の部分と「キ大きく持ちて下されよ。島国日本にとらはれて呉れるなよ。小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ」の部分を、行ったり来たりしながら読まないと、ならない忙しい文章だと投稿者:加藤は思います。「島国日本にとらはれて」や「小さい事思ふてゐると見当取れん事になるぞ」に対して「神国負けると云ふ心」や「本土上陸と云ふキ」は「悪魔ざぞ」ということです。そして、本帖の書き出し「キが元ぞと申してあろがな」に対して「キ大きく持ちて下されよ」となります。これは「神の視点に焦点を合わせて見なさい」ということの意味だと投稿者:加藤は思います。
「神国負ける」や「本土上陸」等の表現がありますが、本帖が降ろされた五月から、三ヶ月ほどの八月の終戦に向けた神示としては、納得の神示だと思います。この時期は、本土大空襲が常態化し、日本中が焼き払われ、日本国軍は「特攻」という手段しか反撃ができず、連合艦隊旗艦や戦艦大和も孤立無援で、沖縄特攻に向かうしかなく、その途中で、敵の航空攻撃により撃沈、ここで連合艦隊は壊滅し、島国日本の海を護る戦力が完全に潰えることになります。
「一たべよ、二たべよ、食べるには噛むことぞ、噛むとはかみざぞ」ですが、日月神示では食事の時に、一二三祝詞を心の中で宣りながら、一二三祝詞の音の数だけ噛めと教えていますが、この文章を深読みするならば、神示を一読め、神示を一にも二にも読め裏の裏まで読め、読めば読むほど神になるとも解釈できると思います。
「青山も泣き枯る時あると申してあろが」ですが、後の文章を考慮すると、スサノオの話だと考えられます。スサノオの父イザナギから「海原を治めよ」と命じられたスサノオですが、母イザナミに会いたいと、長い間泣き喚いていたので、青々とした山が枯木のようになった、という話で、枯木=破壊=戦争による日本の政治・経済・社会・文化・伝統等の崩壊と読めます。この文章に続く文章は、ご存知と思いますが、神示にもハッキリ「いざなぎの神のおん教」と書かれています。これは「神国日本は滅びることはなく」一時的に崩壊しても、「必ず復活する」という意味だと投稿者:加藤は思います。何故ならば「日に千人食殺されたら千五百の産屋 (うぶや) 建てよ」これは神話で、イザナギが黄泉 (よみ) の国から逃げ帰り、地上界との境界にある黄泉比良坂 (よもつひらさか) を千引 (ちびき) 岩で塞ぎ、イザナミに離縁を告げた時の話です。その時イザナミは「あなたがこんなことをするなら私はあなたの国の人々を日に千人殺しましょう」と宣言する。対してイザナギは「それならば私は一日に千五百の産屋を建てよう」と応じた話です。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。