第八巻 磐戸の巻 第十六帖 (R5.5.2)

 皆さま御機嫌いかがでしましょうか、投稿者:加藤です。今回の帖に出てくる「子の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。」は、(R5.2.24)の魯西亜問題の連載一回目の投稿でふれたと思います。日月神示で云う大峠はいつ来るのかという話ですが、投稿者:加藤の見解は、(R5.2.24)に譲りますので、皆様はそちらの投稿を御確認くださ。では、本日の御題。第八巻 磐戸の巻 第十六帖を、先ずお読み下さい。

第八巻 磐戸の巻

第十六帖(二五二)

 世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの伝えん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも脊負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろうが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、肉体心すてて了ふて、神の申すことはそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと伝ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろうがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿少いぞ、聞分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げだすぞ。出雲の神様大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日結構な日ぞ。一月十四日、⦿の一二のか三。

*文中の「何れだけ六ヶ敷い」は、「どれだけむずかしい」。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 211頁ー212頁 より)

 今回の帖も、人間が勝手に決めた智恵や学問では駄目だと書いてあります。「智恵や学に頼らずに」ここですね。一ッの例を上げます。人間の決まり事にお金があります。便利ですよね、お金を持っていれば、マァ何でも購入出来ますから。しかし、漢字を見て判る様にお金とは、本来では金そのものです。現在の國々の貨幣力も、どれだけの量の金を保有しているかなのです。英國のポンドが安く(日本などからみて)なったのは、英國から金が放出されてしまったからです。ここで一寸考えてみて下さい。金は誰の物ですか?私の純金のネックレスやメープル金貨は、私が買った物だから私の物なのは当然でしょ?マァそうですよネェ。ですが、投稿者:加藤の言っている「誰の物」とは、そういう意味では無いんです。本来、その金は何処に在った物かを考えてみて下さい。日本では現在の新潟県の佐渡の金山が金の採掘場所として有名でした、そう元々の金は地球の地下に埋まっていた物です。ですので、金は地球の物です。地球の物という事は、神の物です。現在の紙幣も、地球が育てた植物が無ければ、作れません。私達の体も含め、全ては神から借りている物なのです。人間が勝手に地球から物資を奪い、勝手な決まり事をつくり、人々に押付けているです。

 身魂を磨くにあたり、投稿者:加藤が大事にしている事を紹介しますね。新月の日から満月の前日までは、身注ぎの期間になりますので、新月の日には産土様に御挨拶に行き、「本日から色々な力を体に注いでいきます」と報告をします。満月の日から新月の前日までは、身削ぎの期間になりますので、満月の日にも産土様に御挨拶に行き、「本日から色々な不純な力を体から削いでいきます」と報告をします。一ヶ月に二回、一年で二十六回、産土神社に行き、神と共にある事を確認しています。アレレ?数字が合わないぞと思った方、鋭いです。投稿者:加藤は一年は十三ヶ月として計算をしています。この話は、また別の機会にします。

 この帖は、色々と詰込まれた帖ですが、「悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか」ここの「善も改心」と出ています、これは人間の勝手な勘違いを言っていると、投稿者:加藤は思います。良かれと思った事が、全然良くない事ってあります。それに気付いて直せる人は良いけれど、頑なに「私わ悪く無いモン」って人が困りますよね。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。