第十巻 水の巻 第五帖 (R7.4.28)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第十巻 水の巻 第五帖です、お読み下さい。
第一〇巻 水の巻
第五帖 (二七九)
外国のコトは無くなるぞ。江戸の仕組旧五月五日迄に終りて呉れよ。後はいよいよとなるぞ。神が申した時にすぐ何事も致して呉れよ、時過ぎると成就せん事あるのざぞ。桜花一時に散る事あるぞ、いよいよ松の世と成るぞ、万劫 (まんごう) 変らぬ松の世と成るぞ。松の国松の世結構であるぞ。この神示声出して読みあげてくれよ。くどう申してあろがな。言霊 (ことだま) 高く読みてさえおれば結構が来るのざぞ。人間心出してはならんぞ。五月一日、三 (みづ) のひつ九のかみ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 241頁−242頁 より)
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価格:8800円 |
本帖の書き出しである「外国のコトは無くなるぞ」ですが、この一文だけでは、何のことかサッパリ判らないと思います。この一文は後の「いよいよ松の世と成るぞ、万劫 (まんごう) 変らぬ松の世と成るぞ。松の国松の世結構であるぞ」の文章と合わせてみないと理解できず、また大本神諭の「梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ」という文章も知っていないと、意味を捕まえることが出来ないと投稿者:加藤は思います。簡単に説明をすると、松の世=ミロクの世と解釈できるので、ミロクの世では、体主霊従=外国のコトなどは存在が不可能だという意味だと投稿者:加藤は考えます。ただし、大本神諭にしろ、本帖にしろ、読取方によっては、今すぐにでもミロクの世が到来すると感じさせる文章なのですが、ここでは神界にミロクの世がいよいよ到来すると考えるのが正しいと投稿者:加藤は思います。三千世界の岩戸開は、神 → 幽 → 顕の順番ですので、顕界=現界の岩戸開が、今すぐではないということになります。
「江戸の仕組旧五月五日迄に終りて呉れよ」ですが、当時の岡本天明達の活動状況を理解していないと解らない文章だと思います。当時は「東京大空襲」の真最中です。米軍機の空襲被害を避けるために、江戸の一の宮を鳩森八幡神社から世田谷区用賀の門田武雄 (かどたたけお) 宅に遷したのが、昭和二十年三月十日で、同日「遷宮祭 (せんぐうさい) 」が執行されています。また岡本天明夫婦も、空襲の被害を逃れて、代々木深町から、玉川学園に疎開しているので、江戸の仕組の中核である「奥山」は天明の自宅に置くことが、神示により決められていたので、江戸「奥山」も遷宮された事になります。ですので「江戸の仕組旧五月五日迄に終りて呉れよ」とは、天明夫婦の疎開に伴い遷宮された「奥山」の「遷宮祭」を旧五月五日迄に終了させなさいという指示だと投稿者:加藤は考えます。ちなみにこの年の旧五月五日は、新暦の六月十四日です。天明はこの指示に基づき、六月十日に「奥山遷宮鎮座祭」を執り行っています。まったくの余談になりますが、黒川 柚月氏の「岡本天明伝」に、この「奥山遷宮鎮座祭」に、三島 由紀夫氏が参加していたと書かれています。これは天明の同志に石本 笙 (いしもとしょう) という若者がいて、彼は東京帝国大学の学生で、同大学の学生だった縁で三島 由紀夫氏を「奥山遷宮鎮座祭」に誘ったという経緯だったようです。後に三島 由紀夫氏は、昭和二十三年四月十八日号の「サンデー毎日」に『邪教』というエッセイを発表しています。そのエッセイの中で、日月神示の一節を「荒唐無稽な予言」と述べ、岡本天明のことを「ひからびた小男」と侮蔑的な言葉で表現して批判しています。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。