第二十七巻 春の巻 第三十三帖 (R5.4.25)
皆様、御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。日月神示を読み進めると、科学に関しての話も多く出てきます。今回は、その中の一ッを見てみましょう。本日の御題は、第二十七巻 春の巻 第三十三帖です。先ずお読み下さい。
第二十七巻 春の巻
第三十三帖 (六九〇)
新玉の真珠の波も草も木も春立ちそめてよみかへりけり
今の科学は科学のことは判るがそれより上のことは判らん。今の科学はあるものがあると伝ふことだけしか判らんのぢや。よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、よい理解となり、よい生活生れる。間違つた求めには間違つた神、間違つた生活生れるぞ。道理ぢやナア。窮屈であつてはならん。しかつめらしく固くなつてゐてはならんぞ。笑ひの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのぢや。宿命は宿されたもの。一つのワクに入つてゐるのであるぞ。運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。磨け磨け、ミタマ磨き結構。信念だけでは行詰るぞ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 693頁 より)
今回の帖は、今の科学について警鐘が鳴らされています。「今の科学は科学のことは判るがそれより上のことは判らん。今の科学はあるものがあると伝ふことだけしか判らんのぢや」この一節の解釈は難しいと思いますし、何度も触れていますが、日月神示は八通りに読めるので、ここでは投稿者:加藤の解釈を少々述べます。先ず一ッ目ですが、科学で判っても科学以上の事は判らないと云う意味は、今の科学者は、科学で説明できない事は認めないという姿勢に問題があると思います。ですので、科学以上の事が判らないのです。二ッ目は、科学者の姿勢にも関わる事ですが、今、量子というものが存在している事は判っています。しかし、その実態が未だにつかめていません。この一例でも解るように、今の科学では、あるものがあると云うことだけしか判りません。「量子」に関しては、当ブログの別カテゴリー(探究小屋)に、投稿者:加藤の個人的な防備録として、投稿をしようと思っていますが、「量子もつれ」の問題一ッだけでも良いので、科学者により量子もつれの事が解明出来れば、人間の魂や絶対の創造主(宇宙を想像し創りだした神)の事も解明出来ると投稿者:加藤は思っています。しかし、物質界(三次元)の世界では、目に見えないものや、科学で立証出来ないものを、新たな科学の研究材料にはしないという御決まりが存在する様子なので、今の科学者意識では解明不可能です。これは、個々の科学者が悪いのでは無いでしょうが、その様に仕向けている勢力が存在するのでは?とも思ってしまいます。
「よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、よい理解となり、よい生活生れる。間違つた求めには間違つた神、間違つた生活生れるぞ。道理ぢやナア」この一節、解決が不可能ならば、間違った方向で、間違った答えを求めては駄目だと読めるのは、投稿者:加藤だけでは無いと思います。「窮屈であつてはならん。しかつめらしく固くなつてゐてはならんぞ。」全くそのとおりだと思います。そんな暇があるなら、せっせと身魂を磨けという事でしょう。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。