第九巻 キの巻 第四帖 (R7.3.31)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第九巻 キの巻 第四帖です、お読み下さい。

第九巻 キの巻

第四帖 (二六一)

 カミの大事の肝腎の所が違ふた事になりてゐるから、其の肝腎要 (かんじんかなめ) の所元に戻さな何程人間が、いくら学や智でやりてもドウにもならんぞ、元の祖先の神でないと、此処と云ふ所出来んぞ、神の国の元の因のキのミタマを入れて練 (ねり) 直さな出来んのざぞ、肝腎がひっくり返りてゐるぞ、早う気付かんと、間に合はんぞ、もちと大き心持ちなされよ、世界の事ざから、世界の御用ざから大き心でないと、御用出来んぞ。これからは神が化けに化けて心引くことあるから其のつもりでゐて呉れよ、三、四月気付けて呉れよ。三月九日、ひつ九の神ふで。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 222頁ー223頁 より)

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 本帖の書き出し「カミの大事の肝腎の所が違ふた事になりてゐるから、其の肝腎要 (かんじんかなめ) の所元に戻さな何程人間が、いくら学や智でやりてもドウにもならんぞ」から見ていきたい。先ず「神」ではなく「カミ」と差別化されて書かれている所ですが、日月神示の基本十二巻より先の巻 (後半第二部) から、この「カミ」を読み解く重要な部分があるので、抜粋しておきたい。

 地 (くに) の日月の神とは臣民 (しんみん) のことであるぞ、臣民 (しんみん) と申しても今のような臣民 (しんみん) ではないぞ、神人共に弥栄 (いやさか) の臣民 (しんみん) のことぞ、今の臣民 (しんみん) も掃除すれば九二 (くに) の一二 (ひつぎ) の神様になるのざぞ、自分いやしめるでないぞ、皆々神々様だぞ。 (日月神示 第十八巻 光の巻 第一帖より) と書かれています。臣民が神だということですので、本帖の「カミ」とは我々のことだと理解してよいと投稿者:加藤は思います。ですが「其の肝腎要 (かんじんかなめ) の所元に戻さな何程人間が」の部分を読むと、光の巻にも同じように「臣民と申しても今のような臣民ではないぞ」と書かれています。要するに「我れ善し、体主霊従」の状態では「カミ」とはいえないという意味です。「肝腎要の所元に戻さな」とは本来の「霊主体従」に戻すことですので、身魂磨き、掃除、洗濯が重要課題ということになります。

 「神の国の元の因 (もと) のキのミタマを入れて練 (ねり) 直さな出来んのざぞ」とは、我々は元々「てんし様の民」であり「スメラの民」であるので、当然「元の因のキ」を受け継いでいますので、身魂を磨いて霊主体従に戻れば「元の因のキ」が輝きを戻し、輝きだすということになります。これは「臣民個人々々の岩戸開き」ということで、「身魂磨き」の目的とは臣民一人々々の「岩戸開き」なのだと投稿者:加藤は考えます。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。