第七巻 日の出の巻 第二十一帖 (R7.3.19)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第七巻 日の出の巻 第二十一帖です、お読み下さい。
第七巻 日の出の巻
第二十一帖 (二三四)
神かかりと申しても七つあるのであるぞその一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ、⦿ガカ理、かみかかり、か三か々りぞ、々 (カミ) ガカリぞ、〇 (かみ) か々り、か三か々り、かみか々りざぞ、神か々ってゐないと見える神カカリが誠 (まこと) の神カカリと申してあろが。そこらに御座るかみ憑は五段目六段目の神憑ぞ。神カカリとは惟神 (かむながら) の事ぞ、これが神国の真事 (まこと) の臣民の姿ぞ。惟神の国、惟神ぞ、神と人と融け合った真事の姿ぞ、今の臣民のいふ惟神では無いぞ、此の道理会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ。悪の大将の神憑は、神憑と分らんぞ、気つけて呉れよ、これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カ々リになる様掃除して呉れよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。一二三唱へよ、祓えのれよ、神称へよ、人称 (た々) へよ、神は人誉 (ほ) め人は神称へてまつり呉れよ、まつはり呉れよ、あななひ呉れよ。十二月二十七日、ひつ九のか三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 191頁ー192頁 より)
価格:8800円 |
本帖の鍵は「神憑かり」です。まず「神憑かりは七段階あり、その一つ一つが更に七段階に分かれている」ということと「神憑かっていないと見える神憑かりが、真の神憑かりで、これを惟神という」ということですが、これは身魂磨きの最終目的に達た状態のことだと投稿者:加藤は思います。毎日々々の一連の活動の中に、本来の「神憑かり」はあり、低級霊が憑依し、人格転移したような状態は「神憑かり」とはいえないことは明確なことだと思います。低級霊に憑依され、人格転移し、誰から見ても「異常」と思われることは下の下で、最低な状態です。これは四段目から下だということになります。ですので、五段目以上の「神憑かり」にならなければならない (最終的には七段目) のです。真の「神憑かり」とは「惟神」と書かれています。「神と人とが融け合った真の姿」になるということは、当ブログで投稿者:加藤がよく書いている「神人一体」のことで、これは「惟神の道」ということになります。「惟神の道」へ向かう方法は「身魂磨き」以外にはないのだと投稿者:加藤は思います。
「悪の大将の神憑は、神憑と分らんぞ、気つけて呉れよ」と書かれています。ここの文章には注意 (我々の生活の中) が必要です。悪神の大将が憑依する時、憑依された者に自覚がないという意味です。これは「真の神憑かり」に極めて近い状態になるということですので、注意が必要です。身魂を磨き、悪神に憑依されないようにしなければなりません。しかし現在「我れ善し、体主霊従」の人々の多くは、悪神に憑依され、洗脳されていることに気付くこともなく、生活をしています。気付きがあれば、掃除、洗濯、改心し、身魂磨きに励んでもらいたいと投稿者:加藤は願います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。