第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第九帖 (R6.12.22)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第九帖です、お読み下さい。
第六巻 日月 (ひつ九) の巻
第九帖 (一八二)
何事も持ちつ持たれつであるぞ。神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろが、善一筋の世と申しても今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではないぞ。悪 (ア九) でない悪とあなないてゐるのざぞ。此のお道は、あなないの道ぞ、上ばかりよい道でも、下ばかりよい道でもないのざぞ。まつりとはまつはる事で、まつり合はす事ざぞ。まつり合はすとは草は草として、木は木として、それぞれのまつり合はせぞ。草も木も同じまつり合せでないのざぞ。十月の二十六日。ひつ九か三。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 146頁 より)
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本帖は、極めて重要な内容が降ろされた神示だと投稿者:加藤は考えています。先ず書き出しの「何事も持ちつ持たれつであるぞ。神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろが」ですが、神と人が一体 (神人一体) とならなければ、神仕組は成就しないという意味ですけれども、神が主、人が従という関係性は存在しつつも、神が絶対的な権限で人を従えるということではありません。人には絶対的な自由意志が存在しています。ですので、人が自ら進んで (望んで) 神に従わなければ、全く意味がないのだと投稿者:加藤は思います。
さて本帖の重要な文章部分ですが「善一筋の世と申しても今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではないぞ。悪 (ア九) でない悪とあなないてゐるのざぞ」の部分です。これは「この世から、悪を一掃すれば、善一筋の世になる」と考えている我々の常識的価値観の上に成り立つ考え方ですが、この考え方は「善悪二元論」が基になっています。神示では「今の臣民の言ふてゐる様な善ばかりの世ではないぞ」と、この「善悪二元論」を否定しています。さらに「悪でない悪」があるとも伝えています。本帖で神示は「善と悪」の意味とは極めて奥が深く「絶対善」も「絶対悪」も存在しないと理解しなければならないのだと伝えているのだと投稿者:加藤は思います。今我々が悪だと思っているものの中にも、光を見出せる (見落としている) ことがあるかも知れませんし、あえて目を向けていないかも知れません。また我々が善だと思っているものの中にも、どす黒い闇が隠れているかも知れません。まつり合わすとは、今の社会秩序とまつり合わせることではないということを、キッチリと理解して置かなければならないと投稿者:加藤は考えます。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。