第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第一帖 (R6.12.8)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第六巻 日月 (ひつ九) の巻 第一帖です、前回の投稿で、ご案内しました通り、本日の投稿から、日月神示 第六巻 日月 (ぐつ九) の巻に突入です。それでは、お読み下さい。

第六巻 日月 (ひつ九) の巻

第一帖 (一七四)

 富士は晴れたり日本晴れ。⦿の巻書き知らすぞ。此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分かお返しした者から楽になるのざぞ。今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ。神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひつくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。我 (が) 出したら判 (わか) らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、臣民無理と思ふ事も無理でない事沢山にあるのざぞ、神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。毀 (こわ) すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢に入れて捏 (こ) ね廻し、練り直すのざぞ。日本の中に騒動起るぞ。神の臣民気つけて呉れよ。日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。小さくしたいなれど。旧九月一日、ひつくのか三。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 141頁 より)

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感想(12件)

 「富士は晴れたり日本晴れ」日月神示ではお馴染みの言葉で、日月の巻は始まります。よく出てくる言葉ですが、今まで解釈をして来ませんでしたので、マァ一寸だけ解釈して置きます。この言葉は「重要」な言葉なので、何度も何度も書かれています。ミロクの世が成就した時の日本の姿を伝えている言葉で、神の仕組は、変わらずに進んでいるわけですから、この言葉の到来を、神は知っているということになります。

 「此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ」この言葉は、投稿者:加藤の記憶違いがなければ、過去の投稿でも触れた話題だと思います。我々が使用している、銭や土地、家、車、等々は全て自分の物と思っていると思います。しかし考えてみて下さい。銭は、紙や鉱物で出来ています。元々は地球上にあった資源です。自分の物ではありません。土地や家、車なども同じです。自分の物と勘違いしているだけです。元々が神の物なのですから、神に返すのが当たり前なのだと投稿者:加藤は思います。

 「今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ」「今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ」と書かれています。この三ッの洗濯の説明は、本文にも書かれていますが、国単位の「身魂磨き、メグリ取り」であり、国の洗濯と読み取れます。先繰 (せんぐ) り出て来るとも書かれています。先繰りとは、順を追って次々に出て来るという意味です。ですので一ッの洗濯が終わっても、次々と新たな洗濯がやって来るという意味です。さて、国単位の洗濯とはなんでしょうか?投稿者:加藤が考えるには、「我れ善し」「体主霊従」の人間達が、搾取し続けた地球の資源を、地球に返すことだと思います。そう考えると、国単位の洗濯とは「天変地異」… だと思いますが、地球という意識体にしてみれば、この天変地異も、我々人類が病気で熱を出すくらいの問題だと思います、しかし地球の立場になって考えれば、その熱を出した原因が我々人類だとなると、地球にとって我々人類はウィールスでしかないので、ある程度は、地球が出す熱によって処分されるのは仕方がないのでしょう。

 「我 (が) 出したら判 (わか) らなくなるぞ」の部分ですが、ここは読み手によって解釈が分かれると思いますけれども、投稿者:加藤には、我々の「常識」が学や智を優先させてしまうことで、判断が出来なくなる、又は判断を誤ると伝えているように感じます。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。