第五巻 地 (九二) つ巻 第八帖 (R6.10.21)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第五巻 地 (九二) つ巻 第八
帖です、お読み下さい。
第五巻 地 (九二) つ巻
第八帖 (一四五)
祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ、昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。世界中借銭なし、何しても大望 (たいもう) であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、神主お祓ひの祝詞 (のりと) あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣 (の) るのぞ、今の神主宣ってないぞ、口先きばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。あなはち、しきまきや、くにつ罪みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。九月十九日、ひつ九の⦿。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 116頁ー117頁 より)
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今回の帖は「祓い」について書かれた神示です。祓いとは、穢れたものを清める行為を指す言葉ですが、本帖は、それに止まらず、借銭=カルマも祓えと書いてあります。ということは、身魂磨きも祓いの行為だということになります。「祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ」とは、完全に身魂磨きが完了した状態にする事だと言っているのだと投稿者:加藤は思います。この身魂磨きという行や、身魂の洗濯、改心は、自分自身で行わなければならず、神でも手助けは出来ない事なのでしょう。
「神主お祓ひの祝詞 (のりと) あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣 (の) るのぞ、今の神主宣ってないぞ、口先きばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ」これは、かなり手厳しい言葉で書かれています。現在の神主が宣る、祝詞を完全否定している言葉とも受け取れます。「神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ」とも書かれていて、祝詞とはどのようなものか、ということにも触れています。しかし肝心な部分は「祝詞も抜けてゐるぞ」の部分で、ここの解釈は長くなりますので、探求小屋で「大祓詞 (おおはらえことば) 探求」として投稿を予定しています。簡単に説明すると、現在の祝詞内容には、削除された (抜けている) 部分が存在しているということです。
「神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ」今回の帖を締める文章です。日月神示らしい表現方法だと投稿者:加藤は思いますが、大間違い (勘違い) とは、どのような意味かとを考えると、神の御用を務める者は、神主でも坊主でもなく、臣民自身だと伝えている文章だと投稿者:加藤は読み解きます。神の御用を務めることが出来る臣民は、身魂が磨かれていなければならない、というところへ戻る文章です。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。