第二巻 下 (四百) つ巻 第三十七帖 (R6.7.3)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第二巻 下 (四百) つ巻 第三十七帖になります。読んで下さい。

第二巻 下 (四百) つ巻

第三十七帖 (七九)

 世が変りたら天地光り人も光り草も光り、石も物ごころに歌ふぞ、雨もほしい時に降り、風もほしい時に吹くと雨の神、風の神申して居られるぞ。今の世では風雨を臣民がワヤにしているぞ、降っても降れず、吹いても吹かん様になりてゐるのが分らんか。盲つんぼの世の中ぞ。神のゐる場所塞いで居りてお陰ないと不足申すが、分らんと申しても余りであるぞ。神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず、臣民は神の入れものと申してあろが、あめのひつくの民と申すのは、世界治めるみたまの入れもののことぞ、民草とは一人をまもる入れものぞ、ひつくの臣草は神がとことん試めしに試めすのざから、可哀そうなれど我慢して呉れよ、その代り御用つとめて呉れたら、末代名を残して、神からお礼申すぞ。何事も神は帳面につけとめてゐるのざから間違ひないぞ、この世ばかりでないぞ、生れ代り死に代り鍛へてゐるのぞ、ひつくの臣民落ちぶれゐると申してあろがな、今に上、下になるぞ、逆立ちがおん返りて、元のよき楽の姿になるのが近づいたぞ、逆立ち苦しかろがな、改心した者から楽にしてやるぞ、御用に使ふぞ。八月三日、ひつ九のか三。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 62頁ー63頁 より)

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感想(12件)

 今回の帖「今の世では風雨を臣民がワヤにしているぞ」の部分が、投稿者:加藤が気になってしょうがない部分です。令和六年に入り、半分が終わりましたが、地球規模で今まで人類が経験したことの無い自然災害に襲われています。何年か前から「引き寄せの法則」という物が流行り出しましたが、我々は意図せずに自然災害を引き寄せていることに気付くべきだと投稿者:加藤は思います。人間が「我れ善し」の考えでは、人間以外の者からの報復? (回帰?) の現象が発生することは必然なことだと投稿者:加藤は考えます。本来、今回の帖では「世が変りたら天地光り人も光り草も光り、石も物ごころに歌ふぞ、雨もほしい時に降り、風もほしい時に吹くと雨の神、風の神申して居られるぞ」とミロクの世が描かれていてます。しかし、そのミロクの世を我々が遠ざけているのではないでしょうか。「神のゐる場所塞いで居りてお陰ないと不足申すが」とありますが、これは日月神示的に読み解けば「鳥居」と「注連縄」で神を封印して置いて、お陰が無いと不平不満を言っているという意味です。我命という言葉がありますが、これは真我のことです。天命とは、ご存知のように「天壌無窮の神勅」のことです。そして、我々は今、我命である「真我」を「自我」によって封じ込めてしまっていないでしょうか?真我を封じ込めてしまうと「体主霊従」となり、それは我れ善しの考えが、そうさせてしまうのだと投稿者:加藤は思います。

 後半の「神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず」からは、ミロクの世のことではなく「天のひつくの民」の話になります。「神ばかりでもならず、臣民ばかりではなおならず」とは「神人一体」とならなければ駄目だという意味でしょう。「神人一体」となるには身魂磨きしかないと投稿者:加藤は思います。最後はやはり「改心」と「身魂磨き」になってしまいますね。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。