五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十五帖 (R7.11.3)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、五十黙示録 第一巻 扶桑之巻 第十五帖です、お読み下さい。
五十黙示録 第一巻
扶桑之巻 第十五帖
百不足八十隈手 (モモタラズヤソクマデ) いまひらかんときぞ。天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は我 (ガ) が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、神人 (カミヒト) とならねば生きては行かれんのぢや、天地がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民少いぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられゐた人民たちよ、もうその時は過ぎてゐるのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地をふみしめよ、大地の気が身内に蘇るぞ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 762頁ー763頁 より)
価格:8800円 |
本帖は、五十黙示録 第一巻 扶桑之巻の最終帖となり、本帖も冒頭は片歌となりますが、本帖の冒頭片歌の意味を読み解くには、一捻りが必要だと投稿者:加藤は思います。百不足とは、百に満たないという意味があり、八十や五十などの数にかかる枕詞です。八十隈手とは、多数の曲がり角という意味ですが、これをそのまま読むと、片歌の意味がみえません。そこで、八十と隈手を分けて、八十を多くのとし、隈手を別の意味である、人間界以外の世界 (あの世、幽界) とすれば「あの世の多くの秘密が今開かれる時となった」となると思います。本帖の冒頭に書かれた片歌の意味が見えてくると、本帖の本文の意味も理解しやすくなるのではないかと投稿者:加藤は思います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。