第八巻 磐戸の巻 第十八帖 (R5.7.11)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。本日の御題は、第八巻 磐戸の巻 第十八帖です。今回の帖は深く難しいですが、その中で一節を抜取り、皆さまにお伝えしたいと思います、皆さまの日々の習慣に取り入れていただけたらと、投稿者:加藤は望みます。先ずは読んでみて下さい。

第八巻 磐戸の巻

第十八帖 (二五四)

 今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろうがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其時からよき方に廻してやるぞ。改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。この仕組判りたら上の臣民、逆立しておわびに来るなれど、其時ではもう間に合はんからくどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此方申すのざ。悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろうがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざからマコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈よ善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ。一月十四日、⦿の一二のか三。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 213頁ー214頁 より)

 さて抜取りたい一節は、「改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。」ですが、チョット長いので、「よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ」という所に焦点をあてて話を進めたいと思います。「のれよ」とは、祝詞を宣るという意味です。祝詞は「のりと」と読み、神に対して奏上する言葉という意味になります。「のりと」は「宣る (のる) 」が由来だという事だそうです、宣るとは口に出して言うという意味ですから、要約すると、「神に申し上げる言葉」となります。

 日本には古くから、「言霊 (ことたま) 信仰」というものがあり、日本語には特別な力が宿っているといわれています。過去投稿 (R5.3.3) でも「日本語の完璧な発音」を、GHQが恐怖のあまりに崩壊させたという様な話をしたと思います。神道では言霊信仰の考えが今でも生きてますので、祝詞を宣るときは、一字一句を間違え無いようにして、丁寧に述べる事が大切になります。

 当ブログで、引用に使用している本、太陽出版の「ひふみ神示」ですが、日月神示の別名をひふみ神示とも言います。これは日月神示と「一二三祝詞」とが、深く関係しているからだと、投稿者:加藤は理解しています。一二三祝詞に関しては、別カテゴリーでも取上げる予定ですが、早く知りたい方は、ネットで調べて下さい、沢山出てきます。今回の帖に、「覚悟はよいか、改心次第で其時からよき方に廻してやるぞ」と書いてあります。皆さまの日々の生活の中で、歩きながら、お湯を沸かしながら、風呂にはいりながら、掃除をしながら、等々、ほんの五から六分ですので、一二三祝詞を宣る時間を、一日に何度も何度も、取り入れて生活をして欲しいと、投稿者:加藤は望みます。一二三祝詞を歌にしているYouTubeもありますので、興味のある方は検索してみて下さい。歌として覚えてしまえば、何時でも口ずさめます。

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。