第一二巻 夜明 (四あ) けの巻 第七帖 (R7.7.16)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一二巻 夜明 (四あ) けの巻 第七帖です、お読み下さい。
第一ニ巻 夜明 (四あ) けの巻
第七帖 (三二七)
神の臣民に楽な事になるぞ。理屈無い世にするぞ。理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ。人に知れん様によいことつとめと申してあろが。人に知れん様にする好い事神こころぞ。神のした事になるのざぞ。行けども行けども白骨と申したが、白骨さへなくなる所あるぞ。早よ誠の臣民ばかりで固めて呉れよ。神世の型出して呉れよ。時、取違へん様に、時、来たぞ。八月一日、あめのひつく神。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 275頁 より)
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価格:8800円 |
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本帖の内容は、現代を生きる我々にとっても極めて重要な内容が書かれていると投稿者:加藤は思います。書き出しの「神の臣民に楽な事になるぞ。理屈無い世にするぞ。理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ」の中に「理屈」という言葉が何度も出て来ています。先ずこの「理屈」とは何かを理解しなければなりません。辞書を見ると、理屈には色々な意味があるようなのですが、投稿者:加藤がここで問題としたいのは、我々がよく使う言葉で「屁理屈」というものがあります。二人の人間が、双方共にまともな論調をもって討論をしているとしましょう。双方ともに正論なのですが、相容れない正論がぶつかっています。そうなるとお互いに相手の論調は「屁理屈」にしか聞こえないという状態になります。このことを踏まえて、現代の世の中を観察してみましょう。民主主義という名の下に、「理屈くらべ」が行われていることに気付いているでしょうか?「国民のため・国益のため」と言って「自利」を貪る政治家がほとんでではないでしょうか?政治の話はしたくないのですが、投稿者:加藤がよく思うのは「何でこんな奴が、議員バッジを付けてるんだ?何でこんな奴が、大臣の椅子に座ってるんだ?」ということです。これは選挙制度に問題もあるでしょうが、それ以前に「我れ善し・体主霊従」の人間が多いことが原因だと投稿者:加藤は思います。日月神示 補巻 月光の巻は、当ブログで扱うかを未だ決めていませんが、月光の巻の第七帖の一部分を下記に記載させてもらいますので、一読してみてください。
多数決が悪多数決となるわけが何故にわからんのぢゃ。投票で代表を出すとほとんどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂い、悪となり、人民も同様になっているから、その人民の多くが選べば選ぶほど、ますます混乱してくるのであるぞ。それより他に人民の得心出来る道はないと申しているが、道はいくらでもあるぞ。人民の申しているのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体に綾 (あや) なせば弥栄えて真実の道がわかるのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。
と書かれていて「民主主義」と「独裁の共産主義」を完全否定しています。政治の世界だけでなく、経済界を見ても、投稿者:加藤からは同じ構図にしか見えません。
「行けども行けども白骨と申したが、白骨さへなくなる所あるぞ」とは、多くの臣民の身魂磨きが進んでいないことに警鐘を鳴らしている文章だと投稿者:加藤は思います。日月神示 第十巻 水の巻 第十四帖に「行けども行けども草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変わるぞ」とありましたが、この草ぼうぼうより強い言葉に変わっています。身魂磨きが進まず、自分の足元が雑草だらけで、先も見えないという状況が悪化して、白骨だらけ。身魂磨きを進めないと、この白骨の中に自分の白骨も存在することになるのだぞとの警鐘だと投稿者:加藤は思います。
本帖の解釈の最後に「時、取違へん様に、時、来たぞ」と「八月一日」について、少々触れておきたいと思います。本帖が降ろされた日から、昭和二十年八月に入ります。ですので本帖が降ろされた五日後に広島県に原爆が炸裂 (日本国の夜明が到来) することになります。「時、取違へん様に、時、来たぞ」の「時」とは、日本の夜明けのことを指し、岩戸開き=はじめの幕開けの「時節」が来たことを意味しているのだと投稿者:加藤は思います。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。