第一一巻 松の巻 第十二帖 (R7.6.8)
皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一一巻 松の巻 第十二帖です、お読み下さい。
第一一巻 松の巻
第十二帖 (三〇三)
前にも建替えはあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって悪は走れば、苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神神様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早よう改心なされよ。建替の事学や智では判らんぞ。六月二十八日、あめのひつくのかみ。
(太陽出版 新版 ひふみ神示 259頁 より)
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価格:8800円 |
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今回の帖は非常に重要なことか書かれています。書き出しの「前にも建替えはあったのざが」と冒頭に書かれています。これは「前にも建替えはあった」けれども、結果がよくなかったという意味です。理由は後に続く「三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって悪は走れば、苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ」との言葉です。この文章には重要な伝えが四ッ書かれています。一ッ目は「どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって悪は走れば」で、神、幽、顕の各世界が個々に独立している (閉じた世界) では、どれかの世界の建替えができても、建替えの効果が時間と共にうすれていき、どこかの世界から「悪神」の波動が入り込み、再び悪に染まってしまう。ですので「三千世界の建替ではなかったから」と書かれているように、今度は三千世界、一度に建て替えるという言葉なのだと投稿者:加藤は思います。二ッ目は、一ッ目の延長となるのですが、善と悪が共存する場合、必ず「善が悪に染まっていく、一方通行の仕組」だということです。もしも逆に「悪が善に染まっていく」世界があるとすれば、世界はよくなる一方なのですけれど、何時の世でも、古今東西、そんな処は何処にも存在しないことは理解されていることと投稿者:加藤は思います。三ッ目は「神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ」で、知らず知らずに「悪」に染まっていくのが「神々様」でも例外ではないということは重要なことだと投稿者:加藤は思います。最後の四ッ目は「悪は走れば苦労に甘い」です。「苦労に甘い」とは「苦労に厳しくない・てぬるい・ゆるい」という意味だと投稿者:加藤は思います。即ち「苦労したくない」→「楽になりたい」→「楽になるのが良いこと」→「楽になるのが目的・目標となる」という流れが生じる。よかれと思って「楽に、便利に、快適に」を追求した結果、自分の中に「悪が走る」ことに通じる。これは神々の価値観とはほど遠い価値観だと投稿者:加藤は思います。ここで追記させてもらうと、自分は「世のため人のため」によいことを行った (行っている) と思っていても、その行為が本当に「神の価値観」に合致しているかどうかなのです。平成七年現在、世の中は人間にとって、楽に生活ができる環境が整備されています、道路を人工石で固めて、非常に歩くのが楽です。しかし、地球にしてみれば呼吸が止められ苦しんでいることでしょう。人工石を敷き詰めるために、どれだけの植物が伐採されたのでしょうか?人間とは自分勝手な生き物ですので、これで「世のため、人のため」と思い込んでいる人々が「神の価値観」を理解することは決してないでしょう。近年日本でも、人里に野生動物が多く出現しています。これも投稿者:加藤の考えでは、人間が勝手に棲み分け領域を崩壊させたからです。このような行為で、人間にとって住みやすい場所を拡張することも「神の価値観」に合致しているとは思えません。
最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。