第一一巻 松の巻 第八帖 (R7.6.1)

 皆さま御機嫌いかがでしょうか、投稿者:加藤です。今回のお題は、日月神示 第一一巻 松の巻 第八帖です、お読み下さい。

第一一巻 松の巻

第八帖 (二九九)

 神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界 (がいこく) 身魂は幽界 (がいこく) 行。一寸の住むお土も神国にはないのぞ。渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。日本の人民、大和魂何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ。戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。今度の建替は、此の世初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に云ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は固 (もと) より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝位誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付毛て呉れよ。悪神の守護となれば自分で正しいと思う事、悪となるのざぞ。悪も改心すれば助けてやるぞ。海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。まつわり呉れよ。竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。朝日輝る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。宝愈々世に出るぞ。人民の改心第一ぞ。顔は今日でも変るぞ。人民の改心なかなかぞ。六月二十三日、アメのひつ九のかみ。

(太陽出版 新版 ひふみ神示 256頁ー257頁 より)

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 本帖の書き出しですが「神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界 (がいこく) 身魂は幽界 (がいこく) 行。一寸の住むお土も神国にはないのぞ」と書かれています。この部分の解釈は、誰かからの批判を覚悟しなければならない内容だと投稿者:加藤は思います。投稿者:加藤は「人権」という言葉があまり好きではありません。何故ならば経験上ではありますが「人権無視だ!」と叫ぶ人間ほど「人権を無視」している人間はいないと思っているからです。日月神示的な言葉でいうならば、我れ善しの考え方で、自分のことは棚に上げて、他人を攻撃する言葉として「人権」を持ち出す人が多いのです。他人に対して「人権無視」と言った時点で、言った相手の人権を無視していることに気付かないのです。さて批判覚悟の内容です。この文章は「神の臣民」と「幽界 (がいこく) の身魂」の住み分けについて書かれた文章です。「住み分け」や「区別」は「差別」ではありませんので、最後まで読んでください。本帖に「大和魂」という言葉が出て来ますが、「大和魂」を持つ臣民と、大和魂を持たない身魂では「波動」が違うのです。波動の違う土地で生活をすることは、非常に居心地が悪いものです。令和七年現在、波動の違う身魂の人々が、神国日本で自分たちの波動に合わせた生活をしようとして、問題をおこし痛い目をみて「自業自得」に陥るというニュースをよく目にします。日本人 (大和魂を持つ臣民) が、仏蘭西のルーブル美術館の見学に、一週間の旅行に行くとしても「郷に入っては郷に従え」と、波動の違う場所で、自分たちの波動に合わせようとはしないと投稿者:加藤は思います。まぁ短時間の旅行と、住むということでは違いますが、幽界 (がいこく) の身魂の人が、神国日本に住み続けることなどは、到底不可能なのです。それが「一寸の住むお土も神国にはないのぞ」であり「幽界 (がいこく) 身魂は幽界 (がいこく) 行」なのです。

 「今度の建替は、此の世初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ」ですが、この文章に出てくる「戦」とは大東亜戦争のことですので、此の世初まってない事である建替えは、戦争のことではないことが判ります。「戦」のようなチョロい建替えではないということは「天変地異」なのでしょうか?

 「戦の手伝位誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ」の部分ですが、「戦の手伝い」の意味は、当時 (戦時中) の言葉で「銃後の守り」で、国民全員で後方支援をするという意味です。国民の中には「挺身隊」として軍需工場などで働き、必死で戦の最前線を支えようとした婦女子もありました。この時期の日本は「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に、困苦欠乏に耐えた時代だったのだと投稿者:加藤は思います。「今度の御用」は、その時代より難しい御用となるのでしょう。

 「悪神の守護となれば自分で正しいと思う事、悪となるのざぞ」この部分も、皆さまには「耳にタコ」だと思いますが、自分の考えや判断が正しいと思い込み「悪とわからない悪」のことです。長くなりましたので、今回はこの辺で…

 最後まで読んでいただき、有難う御座いました。次回も宜敷く御願い致します。